すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「幸せな子ども時代」を阻むもの

2017年04月10日 | 読書
 「貧」は見てのとおり、「分」+「貝」によって出来た会意文字。「貝(財貨)」を「分ける」ことによって乏しくなった状態を示す。この意味を現在に照らし合わせると、偏りが酷いので富める者と貧しき者の格差がでるということか。「今」と「貝」を重ねると「貪(むさぼる)」という字になることが、少し悲しい。



2017読了35
 『子どもの貧困連鎖』(保坂 渉・池谷浩司  新潮文庫)


 2010年4月から約1年、共同通信が配信した連載記事をもとにして加筆、修正された一冊。全国24紙に掲載されたと書いてある。しかしそこに本県の新聞名はなかった。ここ数年「貧困」に関した話題は挙がっていたが、この文庫を読み、認識を新たにすることがいくつもあった。次の一言に全てが込められている。

 「子どもの貧困は見ようとしないと見えない」


 教育現場にいた一人として、常に見ようとしてきたかと訊かれれば、いささか自信がない。ただ、受け持った何人かの子の顔はすぐに思い浮かぶし、担任とともに対応したいくつかの出来事も忘れていない。しかしそれを構造的な問題として把握し働きかけたか、という点では反省が残る。鈍感さにも気づかされる。


 登場する学校や保育所の教師、職員、そして関わる人たちの熱意には驚かされるし、それ以上に、個の問題にせずに社会全体への目配せを怠らないことに頭が下がる。一言で表せば「人間の可能性への信頼」が徹底していると思う。それは私達もよく使う言辞だが、悪状況の中で発揮できることで本気度が見えてくる。


 当町でも「こども園」が発足し、先日関係の会議に出席した。その場でも自分の認識不足を感じ、質問もした。しかし本書によって知り得た一つは、この制度転換がどんな意味を持つのか、広範囲に目を凝らせということだった。全ての子に「幸せな子ども時代」を送らせる社会づくりの意義は、とてつもなく大きい。

13年目の生き残り

2017年04月09日 | 雑記帳
 このブログ開設は2005年4月9日。昨日で丸12年が経過し、今日から13年目ということになる。自分の教育実践を中心にホームページ「すぷりんぐ」を始めたのが2001年。確か同じ頃に、勤務校のホームページも作った。流行ってきたブログを始めたのが2004年。調子に乗って2つめに手を出した。それがここだ。


 周辺雑記としての最初のブログは「すぷりんぐ+α」と名づけた。ホームページにも実践の他に雑文めいたものを書きつけていたが、ブログの手軽さが魅力だった。コメントもつきそれなりに楽しかった。ただ読書や言語に関して特化したページもいいなあと思い、この「すぷりんぐぶろぐ」と題したページを作った。


 その後「すぷりんぐ+α」はプロバイダーを換えたので維持できず廃止し、こちらと合流させた。ホームページとリンクさせ、並行して記録化を図っていた。ソフトを買ってホームページを作り直し、「すぷりんぐnext」と名づけ第2期(笑)に入ったのが2008年。こんな感じのindexだった。お気に入りのトップページだ。



 「+α」の名前を引き継ぎ、写真専用ページとして開設させたのもその頃だ。ホームページでは容量制限が気になるので、重宝した。しかしそのサイトもこのブログで兼ねられると思い、昨年停止した。ホームページ本体はソフトの関係で乱れが生じ、結局廃止した。ストックという観点が不要になったこともある。


 昨春、思いつきで「羽後のたべびと」なるページを開いた。単なる食べログではなく、ユルイ海原雄山(笑)を目指したのだが、特化は無理だったのでこちらへ時折書くこととする。結局生き残りは、このページのみ。なかなか風穴は見つからないが、もう少しは探し続けてみたい。付き合ってくださる方々に感謝である。

光るコピーに座布団10枚

2017年04月08日 | 雑記帳
 事実は小説より稀勢の里

 某温泉施設の休憩室で手に取った週刊誌の、その小見出しに「やられた!座布団10枚」と思った。

 当然、大相撲3月場所の誰しも予想だにしなかった劇的な結末のこと。

 それにしても、上手いコピーだ。
 ことわざや慣用句を使って最近の話題をコピー化することは、よくある手法だろうが、単なる駄洒落とはレベルが違う見事さだ。

 それは、該当する人物や出来事にぴたりとハマる「ことば」が無ければいけないし、上の作品はまさにぴったりだったわけだ。



 習作と思って、いくつか考えてみよう…と思ったが、容易ではない。


 とりあえず、一つ思いつく。

 「あぶはちトランプ」

 某大国大統領、様々なことに口を出し手を出し…どうするのっていう感じで作ってみたが、「虻蜂取らず」とは少し距離があるかな。


 ではもう一つと、ひねり出す。

 「籠池に手を咬まれる」

 ううん、さすがに「飼い犬」と「籠池」では無理があるかな。
 なんとなく、飼い犬っぽい顔というイメージも湧いたりするのだが。


 おっ、これはどうだ。

 「分け入っても分け入っても安倍昭恵」

 山頭火の名作を使って、その「果てしなさ」を表現する。
 なかなかでは、ありませんか。

 これは今回の事件という視点もあるが、夫君の視点から見たという解釈も成り立つ秀作(笑)ではないか。
 しかし…「青い山」との重ねは異論があるだろうなあ。


 どうしても好ましい話題に近づけないこともあって、稀勢の里のコピーが一層光ってみえる。

1%の悪の成立

2017年04月07日 | 読書
Volume45

 「鳥の中の1%が托卵により自分の子孫を残しています。私は、この1%が自然界で托卵という悪が存在できる限界の値ではないかと考えています。99%の鳥がまじめに自分で子育てしているので、1%の托卵という悪が成立するのでしょう。同じことは、人間社会にも言えます。いつの時代にも悪人が存在するのも同じ理由なのです。両者がこの割合で存在するときに、社会は最も安定するからです。」


 「托卵」とは、自分では子供を育てず他の鳥に子育てをさせる習性のこと。
 カッコウが有名であるが、ホトトギスなども同様であるという。
 地球上に生息する鳥の種類数をもとに推定される割合から、中村浩志信州大名誉教授は、自らの考えをそんなふうに記していた。



 カッコウの托卵の過程にさほど興味はないが、人間社会に置き換えた部分は考えさせられる。

 99対1がそのまま善と悪の割合とは言えないようにも思うが、いずれ人間社会にある悪の存在についての肯定的なとらえ方は納得できる。
 俗にいう「必要悪」とは意味は違うが、悪は善や正義の相対的な観念でもあるだろうし、悪はそれらから必ず生み出されると言ってもよくないか。


 歴史や外交などの大きな部分で語らずとも、例えば「職場」や「教室」という空間にも1%の悪は存在したほうがいい、いや存在するのが自然と考える。

 それは特定の誰かを指すことばかりでなく、分散されて複数にあるイメージも湧く。

 その悪の刺激によって、「社会」を維持するための営みがより動的に続いていくとでもいうべきか。
 悪をどんなふうに認めるかが、安定のための基盤となっていく。

おへそと子供と

2017年04月06日 | 読書
 最近へそをまじまじと触ったことがあっただろうか。もう何年も意識して触ったことがないように思う。まあ、風呂で身体を洗うときに触れてはいるのだけれど。考えるまでもなく「自分」が一個の存在として始まった貴重な「跡」。最も重要な部分とわかっているけれど、ふだんあまり認識をしていない箇所でもある。



2017読了34
 『にんげんのおへそ』(高峰秀子 新潮文庫)

 文章の名手として知られる往年の名女優が書いたエッセイ。かなり特殊な人生を歩んだ人だ。その生い立ちや「家族」との不幸な歴史について少しは知っていた。ここで自身が淡々と語った養母との関わりは、ある意味で頑なな性格を形作ったことは確かだろう。しかし、それがまた魅力を作ったようにも感じられる。


 題名に取り入れられた「おへそ」という文章は、撮影所時代の監督やスタッフについて書かれたものだ。その方々を「魑魅魍魎」と称し、撮影時の個性的なエピソードを綴っている。結びは「撮影所の魑魅魍魎たちには、ちゃんとおへそがあるのです」。この比喩は「筋の通った清々しさを持つ個性」と読み替えていい。


 著者こそ「おへそ」を持ついい典型だろう。また個性的な夫との暮らしをユーモアいっぱい描いたり、様々な出逢いを通して人間の機微というものをとらえたりしている。観察力が秀でているし、しっとりした筆致も「読ませる」。さらに、名子役としての期間が長かった著者が記す子供論が、実に興味深く心に沁みた。

 私は昔から、子供は大人の小型とおもっている。子供の言語は大人にくらべて少ない。子供は大人のようにへ理屈をこねたり、ややこしい表現はできないけれど、身体全体が一個の感受性のようなもので、鋭敏であり、残酷に近く怜悧でもある。子供には、鋭い感受性はあるけれど、大人の鈍感さはない。

 
 特殊な環境に育ったゆえの偏った見方と言うなかれ。引用したこの一節には、子供と関わるうえでの大事な視点がある。

今日もデビューの日

2017年04月05日 | 雑記帳
 今日は「デビューの日」だそうな。その由来が、かの長嶋茂雄のプロ野球デビューにちなんでいることを初めて知った。一定の年齢以上だったら納得できるだろう。私とてライブでその場面を観ているわけではないが、4打席連続三振のスタートであったことが、劇的な野球人生の始まりを告げる象徴だったんだな。



 ここ数日気温も上がってきたせいか、花粉の飛散がひどい。毎年(花粉症デビューからもはや四半世紀近い)悩まされ、それなりに対策をしているのだが、抜本的な改善にはほど遠い。桜を観るときも十分注意しなくてはいけないことも辛い。齢を重ねると症状が和らぐと耳にしたこともあるが、ありゃあデマだな。


 去年の4月当初、このブログで「懐古録」と称して教職デビューからの数年間のことを8日も続けて書いていたので、ずいぶん余裕があったものだ。今年はある事情で少し忙しいこともあったが、心持ちも随分違う。時の流れとはまさしく川の流れのようにひと所に留まらないが、自分もちゃんと流されているんだな。


 デビューという言葉で思い出すのは、小椋佳が2000年に出したアルバム。タイトルが「Debut」(フランス語)。この言葉は印象深い。語意をさぐっていくと「身をさらす」ことに結びつくらしい。それは例えば進学する、職に就くだけでなく、積極的な発信も意味するはずと考えたのが、ちょうどその頃だ。今も忘れない。

どうでもいいことを真剣に書く

2017年04月03日 | 読書
 集中力がない、持続力がない、瞬発力もない、さらにまた協調性もない、当然ながら計画性もない…と他者から指摘されれば、「うっ、うん」と頷かざるを得ない。そう自覚しつつ振り返れば、なんとこのブログももうすぐ丸12年が経過しようしている。「どうでもいいことのさなかに生きる」証しのようにも見える。


2017読了33
 『アップルの人』(宮沢章夫 新潮文庫)


 この本は、10年ほど前のMAC関連の雑誌連載を中心にまとめられている「基本的にはコンピュータとそれを取り巻く文化について書かれたエッセイ集」だ。しかし、中身は著者が何度も書いているように、本当にどうでもいいようなことに溢れている。「ばかばかしい」しかし「文化についての多面的な考察」でもある。


 読み終えてみると、今まで読んだエッセイ集以上に、何か「刹那を生きる」ような感覚を受けてしまう。今、目の前にある対象(具体物や言語やふいに想起した出来事)について、どこまでも本質をえぐろうとするような…。実際にはただ妄想しているだけ、という言い方もできるのだが、そのシュールさが全力だ。



 著者は、今は閉じているようだが当時ブログを続けていた。原稿料にならない日記を何故書くのかと問われ、答えたその喩えに納得した。曰く「素振り」と「公開スパーリング」。力を入れている訳をこう書いている。「一振りに魂を注ぐのがプロの素振りだし、ボクサーの公開スパーリングだって真剣そのものだ


 裏表紙には「超脱力エッセイ」と評されているが、著者は、プロの書き手としてはいつも真剣だと答えているのである。ある章に「尾崎放哉」の自由律の俳句を引用している。形はひどく違うが、もしかしたらかなり近い世界観があるかもしれないと感じた。つまり、「人はどうでもいいことのさなかに生きている