すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

入口幸福論

2017年04月20日 | 雑記帳
 仙台への行き帰りなどよく立ち寄る某「道の駅」で、いつもの駐車スペースが工事中で使用できなかったので、裏の駐車場に回った。
 当然こちら側にも入口があり、円形を描くエントランスは二方向から入れるようになっていた。
 そこになかなかユーモアセンスあふれる案内が記されていた。

 右手が「幸福への入口」

 左手が「裕福への入口」

 同行者とともに、しばし会話をしながら…。

 「どっちがら入る」
 「おれ、幸福だから、裕福の方さ行ぐがな」
 「ええっ、幸福?裕福でなくとも幸福になるがや」
 「やっ、待で。幸福がら入れば、裕福なれにゃながあ」
 ・・・・

 と、ここで言語解説。「広辞苑」によると

 【幸福】心が満ち足りていること。また、そのさま。

 【裕福】富んで生活のゆたかなこと。富裕。有福。


 まさに「心」の問題と「生活」の問題に区別される。

 従って、より問題があると感じられる方へ入っていけば、いろいろと解決の糸口が見つかるかもしれないということだ。


 個人的に妄想すれば…

 幸福サイドには宗教者やカウンセラーが待っている。

 裕福サイドには投資アドバイザーや宝くじ売り場のお姉さんが並んでいる。


 実際は…

 幸福はレストランに近い方だ。そりゃ実際は「口福」ということか。

 裕福は、物産や直売所へ向かう。つまりは物売りゾーンだ。裕福とは「遊服」みたいなものか。



 さて現実は、なかなか目当ての「福」は見つからないし、空腹でもないのでレストランにも寄らず、物産館でほんの少しの野菜を買って帰ることにする。

 しかし、幸福も裕福もならないうちに帰っていいものかと、後ろ髪を引かれる思いも出てくる。
 それじゃあ、いつまで待てばいいのか!とふいに喉も乾いてきた。

 正面の入口から外に出て、自販機で「伊右衛門」(お得だ、500ml 140円)を購入する。


 ふと、振り返ると、その入り口上部にある案内が目に留まる。

 「至福への入口」

 【至福】この上ない幸せ

 あれえっ、そうかあ。ここから入れば問題なかったのか。
 幸福も裕福も、至福には叶わないはず…
 入り直すか…


 まあいずれにせよ、結局どこから入っても、そこが「福」への始まりだと思うことが大事なんだな。
 福は待っていて与えられるものではなく、自らそこに入ってつかむものなんだよ…

 と、施設管理者に成り代わって代弁してあげようか。


 こんなことぐらいでも楽しめるわけだし、それ一つとっても福になるのはそんなに難しいことじゃない。

桜の見方に気づかされる

2017年04月19日 | 雑記帳
 震災のあった春、弘前の桜を観にいったことを皮切りに、毎年東北各地の桜の名所を訪れることを決めた。齢を重ねていることとは無関係ではないと思う。目に収めたいと気持ちが逸ってくるのは、ある意味の老化防止になると期待も込めている。去年は福島三春の滝桜、そして今年は宮城の白石川堤一目千本桜だ。


 ちょうど今朝から秋田魁新報紙に「2017東北桜めぐり」という記事が掲載されている。何回か続くだろう。そしてそのトップがこの白石川堤一目千本桜だった。新聞には「大河原町」とあるが、実際は「柴田町」の方が有名のようである。記事の写真も「しばた千桜橋」付近からのアングルだ。同じ付近で私も撮った。



 全長8キロ、1200本はさすがに圧巻。しかし休日を避け、天気も見計らって出向いた月曜日の混雑は予想をはるかに超えていた。途中高速も使いながら柴田町までが約3時間、しかし駐車場に入るまでの渋滞で2時間ほどかかった。若い頃ならすぐに立腹したが、最近「心穏やかな」老木の表情を手本にしているので(笑)。



 係の方の話によれば日曜より混んでいるとのこと。これは開花状況や天気もあるが、やはり訪れる客層という理由が大きいだろう。つまり高齢者中心である。駐車場から観桜ポイントに近い場所まで巡回バスに乗るとわかる。「平均年齢60代後半」と一目で予想できる。それから目につくのが、近隣諸国からの観光客だ。


 経済的にいいことに違いないし、もう一つ、桜の見方に接する時、私たち日本人の持つ心性に思いを馳せることも刺激になるのではないか。少し風が出て、桜が散る。その様を見上げる時に持つ無常、潔さなどを、外国人の多くはおそらく感じ得ないのではないか。時代を超えて根付いている価値感に気づかされる。

表現にあきないコツ

2017年04月18日 | 教育ノート
 「あきる」ことはよくある。
 同じことを続けてあきないためには、目的を見失わないこと、刺激し続ける工夫をすることが大切かなとぼんやり思う。
 あきずにやっていられるかどうかは、二つのバロメーターなのかもしれない。



 教育にあきずに取り組めた(?)のも、仲間や尊敬する実践家の方々のおかげだ。
 何度か訪問した東京の杉渕さんの教室にも、かなり刺激をうけた。

 これまでの集約に載せていなかったようなので、ここに再録する。
 今読むと、その後の10年で見方が少し変化したこと、そして仕事以外の日常も似ていることに気づく。


・・・・・2006.3 校内研究紀要あとがき「表現にあきない教師を目指して」

(前 略)
 個人的なことになるが、私にも忘れられない出会いがあった。
 6月上旬の土曜に訪問した東京板橋区の学校公開である。
 ここには「10マス計算」「表現読み」等の実践で注目を浴び、マスコミにも取り上げられる杉渕鉄良教諭がいる。
 朝の活動から昼までのおよそ4時間、密着した形で参観したが、驚きの連続だった。
 休み時間に多数の参観者と共に懇談するなかで、杉渕氏のこの一言が印象に残っている。

 「バリエーションがないと、教師があきる」

 何か一つのことを続けていて子どもがあきる、という言葉を私達はよく使ったりするが、実は様々な場において教師が先にあきてしまっている場合もあるではないかと考えられる。
 大切なことは、あきないだけのバリエーションを教師が持ち、意図的計画的に使いこなしているか、である。これは活動の広がり、深まり、そして評価にも直結することだ。
 表現を研究の正面に取り上げている私達にとっては、ある意味で決定的な重みを持つ言葉ではないかと思う。

 場の設定、方法の選択、技能の提示、練習の仕方等々、どれをとっても10通りしか持たない教師と100通り持っている教師の差は明らかであろう。それは子どもたちに直接響くことになる。

 今年度の研究の営みを振り返ってみたとき、国語・理科・学級活動を中心に個々の実践のバリエーションは大きく広がった。それは本紀要にも示されている。
 そして、これを糧にしながら他教科等の授業や活動に関しても数多くのバリエーションを持つことが、ビックワードとしての表現の追求にもつながっていくだろう。

 子どもが活動にあきなければ、きっと力は蓄積されているはずである。
 子どもをあきさせないために、教師自身の内部情報と表現の豊かさが問われている。
(後 略)

・・・・・・・

カゲの人、かく思う

2017年04月17日 | 教育ノート
 県の教職員広域交流異動が本格的に始まったのは、平成16年度だった。
 その年に見事に(笑)該当者の一人となった自分である。
 と言っても私の場合は完全に自宅通勤できる距離だったので、さほどの負担はないと思ったのだが…。
 
 異動する直前の2月に4週間、筑波の教員研修センターへ研修に行き、他県の参加者と交流し県毎のあまりの違いに驚いてきたばかりだったが、同じ県内であっても郡市毎の違いの多さに、結構な驚きを感じた。

 全県的にはそれがストレスになったのだろうか、身体を壊した教員が複数出た年度であったこともよく覚えている。
 現在は、あまりそういった話は聞かない(これを一面では、平坦化もしくは没個性化とも言うだろう)



 下の拙文は、上部の目に入る紀要原稿なので、かなり遠慮がちに書いている。しかも限られた紙幅で抑え気味の内容だ。
 しかし自分の一面の総括がよく出ていると改めて読みながら思った。


・・・・2006.2 郡市教頭会紀要 「『カゲの人』と呼ばれて」


 「実は、平鹿や雄勝の人たちのことを、わたしたちは『カゲの人』と言ってるんですよ」

 にこやかな顔をして、当時の東由利町A町長さんがおっしゃった言葉だ。

 広域交流人事が大きく動き出した昨年度の4月、南管内からT小へ赴任した私には深く印象に残る言葉だ。
 一緒に着任した方々はどう受け止めたのだろうか。

 カゲというのは、東由利地区からみれば当然「山の陰」であり、通行状態があまり良くなかった時代に使われそのまま残っているということだと思う。
 今でも時折、地元在住の校務員たちの口からポロリと洩れることがある。

 「カゲ」という言葉そのものの印象はというと、何か神秘めいていて想像がはたらく。
 村の古老が
「カゲには近づいちゃならん。そこに行けば必ずタタリがある」とか
「カゲの奴らがやってきた。あいつらの言うことは、全部嘘っぱちじゃ。けして信じちゃならねえぞ。」なんて言うイメージだ。


 管外から来た者にとって、教育活動や日常業務のことで些細な点について違いを感じることは多かった。

 しかしカゲという立場を自覚して?あまり口を挿まない様に心がけきた…
 と、そんなことはないのだが、一つの手法やシステムの良し悪しはそんなに簡単に決められるものではないと改めて思う。

 自分たちのしていることを「良いと信じる」ことは、教育にとって大きなエネルギーの一つだし、それなしには子供たちを導くことはできない。

 「カゲの人」は、そんなふうに会議の度に繰り返される「由利の教育」という言葉を聴いている。

・・・・・・

クラーク博士もそう思うでしょ

2017年04月16日 | 雑記帳
 「なぜ、表現に取り組むのか」などという大げさな題をつけているファイルが、PCデータの中にあったので開いてみたら、そうそうと思い出した。

 教頭時代に6年生の国語を専科のように授業させてもらったことがあり、『紙芝居』を単元化して取り組んだことがあった。
 その途中で子どもたちに向けて話したことを、教科通信向けに文章化したものだった。

 紙芝居発表会の仕上げ練習前に話したようである。一部引用する。

・・・・・・
 みんなの家のお父さんやお母さん、おじいさん、おばあさんが子供の頃は、例えば、表現がうまくできなくても、まじめに物事をこなしたり、黙々と仕事に励んだりしていれば「おとなしくていい子だね」「がんばり屋だねえ」とか認められたけど、今はそうではないです。
 人と人とのつきあいが、昔とは比べ物にならないくらい広がり、きちんと説明したり、自分のことをアピールしたりしなければ、生活しにくくなっている世の中です。
 だから、表現力をつけるということは、これからみんなが生きていくうえでとても大切になってきます。

・・・・・・・



 なるほどね。
 そんなに的外れなことは書いていないと思うが、これが100%ではないことを改めて考える。

 おそらくその頃だったら、既に自分の中で感じ始めていたことだ。

 それは、表現力の育成は重要であり時代の要請でもあるのだが、だからといってそんなふうに子どもを染めることを、拙速にしてはいけないということ。

 「言いたいことを言うのではなく、言うべきことを言える人に育てる」というのは、わが師の大事な教えである。
 その点を踏まえつつ、もっと広い視野を持って子どもに接したい。

 例えば、かの古舘伊知郎が子ども時代は無口で引っ込み思案だったことはよく知られている。
 ぼやっーと何か一点を見つめている時が多い子だったと、何かの本で述懐していたように記憶している。

 古舘に限らず、様々な表現の場で著名な方が子ども時代を振り返る時に、どちらかといえば表現を苦手としていたと語ることは、そんなに少なくない。

 「タメの時期」というものがあるのではないか。
 その「タメ」のバリエーションは個それぞれであり、おそらく他からはあまり想像できない姿として現れるのではないか。

 大らかに構えて子どもを育てることは、今の「評価」「スピード化」を求める時代に厳しいかもしれないが、教育の本質だと思う。


 ある歳時記をみたら、今日は「大志を抱く日」と記していた。かのクラーク博士のアメリカへの帰国の日が由来という。

 「大志」は、近視眼的な環境からは生まれにくい気がする。

静まり返った聴衆

2017年04月15日 | 教育ノート
 聴衆が静まり返る一言…数々の講演、講話を聴いてきたが、そんな経験はあまり多くない。
 データ整理のなかでふと見つけた拙い報告がある。

 学校では年度初めの様々な会が連続して行われ、慌ただしい時期だ。
 PTAなども開かれたことだろう。
 そんなこともふと浮かんだので、紹介したい。




・・・・2005.12 PTA文集掲載「静まりかえった聴衆~全県PTA」


 「子どもはどしどし傷つけるべきだ」

 力強いその一言に、秋田ふるさと村ドーム一杯の聴衆は静まりかえった。
 横手市で開催された今年の全県PTA研究大会。講師は数学者の藤原正彦氏(お茶の水女子大学教授)である。

 藤原氏は国内有数の数学者であるが小学校教育に関する提言、例えば「一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数」という過激な?発言で異彩を放つ論客として有名である。
 その日も講師は刃物のように主張を言い放った。

 「日本は恐るべき『子ども中心主義』に陥っている。歯を喰いしばって我慢する力をもっともっとつけるように…」

 この大会の中では、県教育委員会より英語やコンピュータに関わる行政説明があったのだが、それに真向から正対するような形で次のような発言も続けられた。

 「自分に表現する内容がなくて、何のための英語教育だ」

 「パソコンに戯れていては、パソコンを作る人間にはならない」


 見事に本質をえぐりだしていた。
 あまりにも過激な発言だったので、会終了後に、知り合いの大会事務局にその反応を聞いてみたら「感想を残した人の9割は納得」と言う。
 参加した親や教師にとっては、一種の爽快さと共に深く自省する機会になったか。
 地区音楽祭の日でもあり、当地区からの参加者は唯一私だけ。次の言葉を紹介し報告に換えたい。
 問われているのは、大人の覚悟である。

 「本当に腹の底から持っている価値観を親は徹底的に子どもに押しつけろ。それが踏み台になる。それがないと、子どもは強く踏み出していけない」

・・・・・・

「インディアン」を守ろう

2017年04月14日 | 雑記帳
 昨日「キニナルキ」として紹介した文章の中に「食」と関わることがあった。

 それもぼんやり思いながら、「たべびと」の本ブログ移籍後(笑)の第一稿に何を取り上げてみようか、と考えて浮かんだのが、これだ。

 「ボダッコ」

 県内在住で地元紙を購読している方なら、ああと思い出す方もいるかもしれない。
 「郷(きょう)」という冊子が毎月発刊されているが、その中に「あきたの自慢っこグルメ」というコーナーがあり、今月号で 「ボダッコ」が取り上げられた。

 実は、先月中旬から何度か昼食に「塩鮭」をおかずとしていただく機会があった。
 その折も「ボダッコ」と口にされた方がいたが、もはやそれはボダッコとは言えない別物で…つまり、塩辛度がソフトになってしまった鮭であり、その点は大方が認めていることではあろう。

 今回の「郷」の記事は、ふだん私たちが口にしている塩鮭が、もはや「ボダッコ」と呼べない理由について、味だけではなく別の視点からも語っていたように思う。

 それは「ボダッコ」という言い方の由来である。
 手元にある『秋田のことば』(無明舎出版)の中にはこう記されている。

 「この魚肉の赤みの強い色を『牡丹』の花の色になぞられたものだろうか」

 私自身以前にこの記述は読んでいたし、「ボダ(ッコ)」の由来は「ボタンの花」もしくは「ボタン肉(イノシシ)」だろうなと考えていた。
 しかし「郷」では、秋田市民市場の方々からの情報として、別解釈があることを伝えていた。

 「いろりやかまどで火をたく時にくべる木切れの榾木(ほだぎ)に似ているから、ホダ→ボダとなったとも言うね」

 なるほどの解釈である。
 そして、極め付きは「ボダ切り」「ボダッコ切り」である。



 確かにこの斬り方は、木切れの形に見える。
 そしてこの切り方を、市場では「秋田切り」と呼んでいるというではないか。

 現在、我々が口にすることの多い、サケの身を背も腹も含めて羽根型に切る切り方は「羽根切り」「東京切り」と呼び、区別されると言う。
 そうかあ、結局秋田はいつも東京カブレかよおっ。それはともかく…。


 秋田切り、超激辛のボダッコには、もはや郷愁に近いものを感じる。
 市場では、なぜか「超激辛」を「インディアン」と呼んでいるそうである。
 今も「インディアン」を買い求めてくる人が足を運ぶという。
 
 そうだ、インディアンつまり先住民は守ることは、多様性を担保し、人類を救うことでもある。

 よって、超激辛のボダッコは、ぜひ世界遺産の登録を目指してほしい。県民運動を起こそうではないか。大げさか(和食がユネスコの無形文化遺産になっているから、もうなっているのか?)。

 ともあれ、いいなあインディアン入りのおにぎり。
 
 無性に食べたくなる時がある。
 
…しかし、血圧高めではね(泣)ととたんに弱腰だ。

キニナルセカイ、三連発

2017年04月13日 | 読書
 シャカイやセカイはいつも動いているから、踏ん張らないと立ち止まることさえ出来ない。
 踏ん張るため、立ち止まるため、それは次の動きを定めるためだけれど、僕はいつもコトバに目を留める。


Volume46

 じぶんたちが「せまい世界」にいるということ。
 つまり、ほんとは、世界というものはもっと広くて、
 その広いところで生きるのはむつかしいから、
 当面の適当な居心地を優先して、
 「せまい世界」にいるんだと、知っていたいものだ。
 それこそ業界だとか、地元だとか、趣味の世界だとかは、
 小さな一部分にしかすぎない「せまい世界」なんだと、
 こころに留めておかなくてはいけないと思うのだ。


 これは、先週「今日のダーリン」に糸井重里が寄せたコトバ。
 言いたいことは、個々が「せまい世界」を自覚し、開放や換気を心掛けようということなのだけれど、なんだか本当の「世界」がきな臭くなってきた。
 「せまい世界」の象徴でもあった某国を巡った攻防だ。
 そうなると私たちは、私たちの「せまい世界」を守るために、もう一つ二つ上の世界を注視しなくてはならない。



Volume47

 「晩婚が少子化の問題であるなど話す学者もおりますが、それは結果に過ぎず、僕は生活が不自然なことが少子化の原因だと思っているのです。特に注目すべきは、食事です。食欲と性欲が脳のなかで極めて近しい関係にあるのはいまや常識で、誰でも食欲が満たされると、性欲が軽減するような経験はあると思います。」

 「秋田県の少子化対策について」への質問に、かのクリエーター高城剛(沢尻エリカ様の亭主だ)が答えた文章の一節。
 (藤川崇氏のブログページより)→http://www.fujikawa.biz/entry/2017/03/25/075219
  面白いというだけでなく、傾聴に値することではないか。
 例えば、「食で人を引き寄せる」手法の広がりは言うまでもなく、その進行は止まらない。そこに潜むエゴもあぶり出されてくる気配がする。
 高城氏が結論として言ったことは「まずは、過剰な食事を止めるべきです」ということ。


Volume48

 「英語運用能力については、その有用性について誰一人異論を口にしない。けれども、その期待される有用性とその学習努力のために投じられる手間暇を『ベネフィット』と『コスト』で計算した場合、帳尻は合うのか。『実学』を論じる人たちの経済合理性に対するこの無関心に私は驚愕するのである。」

 「役に立つ学問」という特集に向けて寄稿した内田樹氏の文章の一節。
 グローバル社会や観光立国等々、なんとなくイメージで語られながら、その明確な将来像と教育の関連は深く討議されないまま、流行りのように進行してもいいものか、と改めて思う。
 「世界」に関心を寄せているように見せかけながら権益を広げようとする輩を見抜けないようじゃ、足元すくわれるぞ。

「かならず選挙に行く」という笑い

2017年04月12日 | 雑記帳
 先日観たTVのお笑い番組でANZENという漫才コンビが「かならず選挙に行く」というオチを繰り返すコミックソングを歌っていた。昨年末あたりから知られていたようだが、その曲の入ったCDが4/19に全国発売されるという。認知度も一層高まることだろう。確かに笑いを誘うが、少し複雑な感情が湧いてくる。


 このPRビデオでもわかるように、どんな状況にあっても、またその意義を理解しなくとも「必ず選挙に行くという決意をし、出かける」可笑しみをネタにしている。つまり、それが笑いの対象になるほど、選挙は褪めた目で見られている。また同時に、投票を呼びかける公報をからかっていると言えるかもしれない。


 何故そうなのかは、多様な視点から考えられる。18歳選挙権への対応でバタバタした感のある学校教育にも、問題の一つがあったことは言うまでもない。確かに6年生から憲法や政治について学ぶ機会があるけれど、それは「有権者教育」と呼ぶにはかなり浅いという事実は、中高でも似たようなものではなかったか。


(2017.4.11 北沢峠より)


 「選挙に行く」とは「投票行動をする」ことであり、その「意思決定を行う」ことである。政治参加を前提に特化した学習も必要だろう。また「意思決定ができる力」を様々な場面を通じて養うことが必須だ。それは情報収集の方法から始まり情報ソースの確認などの手順を踏み、確かなリテラシーを育てることだ。


 本県は首長等の選挙が終わったばかり。狭い地域の中で制約は多いだろうが、中高ならこの選挙の教材化は十分可能だ。「投票行動を決定する」プロセスをたどってみることで、「耳障りの良い言葉」だけで判断しない習慣を培いたい。「かならず選挙に行く」が本当の笑い事かどうか、この国の民度が問われているのだ。

源はやはり稀な人

2017年04月11日 | 雑記帳
 検索で「星野」と入れると、「星野リゾート」より「星野源」が上にくる…どうでもいい情報だ。久しぶりに月刊誌「ダ・ヴィンチ」を買ったのは、その星野源特集だったことも理由の一つ。大いに興味あるというほどではないが「第九回伊丹十三賞」の授賞者である。糸井重里、タモリ、内田樹…彼らに並ぶ価値とは?


 伊丹十三記念館のサイトには、今回の授賞理由を次のように記してある。

 「音楽、エッセイ、演技のジャンルを横断し、どこか息の詰まる時代に、エンターテイナーとして驚くような風穴をあけてしまった星野的表現世界に。」(伊丹十三賞選考委員会)


 「驚くような風穴」という力の入った形容に、少し驚いてしまう。「逃げ恥」「恋ダンス」の話題性が後押ししたとはいえ、それまでの積み重ねが認められたことは言うまでもあるまい。そんな気持ちで誌面を読み始めた。結論はおそらく「普通さ」にあるが、それはきっと「素直な気持ちの維持」へのこだわりだろう。


(2017.4.10 夕刻)

 星野源という存在をはっきり認めたのは、あのドラマだったことは覚えている。深夜枠のドラマ「11人もいる!」。宮藤官九郎脚本、妻の幽霊と共に暮らす家族のドラマの中で、居候のように登場する無職の叔父役だった。毎回ギターを弾きながら歌う設定があり、その「無造作」な雰囲気がなかなかいい味を出していた。


 その後は個人的にNHK「LIFE!」のレギュラーとしての印象が強い。記事の中では、評判の高かった映画『箱入り息子の恋』を例に役者論を語っていた。「役のことだけを考えて、自分の体を貸すというか、その人として世界にいるように感じられる、自分がなくなっていく感覚」…戦略や評価重視からは遠い価値観だ。

 
 『ダ・ヴィンチ』が取り上げたのは、文筆家としての連載があり単行本も発刊しているからだ。その連載エッセイを初めて読んだ…うーん、上手い。だらだらと日常を書いているように見せて、組み立てや落とし所を見事に心得ている。「誰にもわかる」ことをこれほど深く理解し表現できるとは…。やはり稀な人である。