すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

横着者、教養と出逢うため

2018年04月10日 | 雑記帳
 「『教養』とは『自分が何を知らないかについて知っている』、すなわち『自分の無知についての知識』のことなのである」というウチダ大先生の至言がある。「自分の持っている知識や情報が、(略)どの書棚に、どんな分類項目名をつけられて、どんな本と並んでいるのかを想像すること」という比喩も見事だと思う。


 図書館に入った時、その言葉を思い出すとつくづく身に染みる。何千冊の本を読んだとしても、自分には本当に「教養」がない。必要に応じ、興味のままに本を購入してきたが、だんだんと書店に足を運ぶ頻度も下がり、横着の検索が主だ。それではどこまでも視野が狭まる一方だ。散歩でもいいから廻った方がいい。


 二月頃は、先輩教師の川柳集を読み入った。今回は少し範囲を広げようと思ったが、どうしても足が郷土資料関係のある書架の方へ。正直、これほど範囲が広いとは想像していなかった。実に様々な人が様々な分野で出版している。ただ点数にすると多いのは、昭和から平成の初めまでで、それ以降は下降している。


 むのたけじの本はある程度持っているが、『たいまつ遺稿集』というブックレットは知らなかった。株式会社「金曜日」が発行元だ。矢崎泰久が前書き、そして画が矢吹申彦とある。二人の名前を見て、学生時代に購読していた『話の特集』という雑誌を思い出す。何か縁を感じるなあ、とその書架をたどっていくと…。


 『むのたけじ 100歳のジャーナリストからきみへ』(汐文社)という5冊セットが並べられていた。「著・むのたけじ/菅聖子」とあり、めくってみると、むのの惹句と解説が見開きの形で続いている。児童生徒を対象としたシリーズのようだ。ああいい企画だと思った。まずは自分で読み、浸ってみようと借りてきた。

日本が育んだ身体の典型

2018年04月09日 | 読書
2018読了36
 『日本の身体』(内田 樹  新潮文庫)


 雑誌『考える人』に連載された対談が集約された一冊。「少し長すぎるあとがき」として30ページが収録され、さらに文庫版で10ページ加わる。日本独自の身体の動かし方、つまり身体運用能力を持つ方々が対談相手である。茶道家、能楽師、文楽人形遣い、合気道家、さらに元大相撲力士やマタギまで、個性が際立つ。


 それぞれの分野の専門的な話は少し難解であるが、そこは稀代の「結び付け上手」であるウチダ先生が、自らの仮説を大胆に披露しながら、見事にテーマを捉えていく。間違いなくキーワードになる言葉として「同期」(シンクロナイズ)がある。「体感を伝える」という場の設定、所作、稽古などが浮かび上がってくる。


 芸能の分野では、文楽人形遣いに限らず雑用をこなしながら「いきなり本番」のような形で稽古がなされることがよくあるという。それは訓練法として非常に特殊な形だが、その意義について語られている箇所が非常に興味深い。現在、学校も含め、教育上「常識」とされている体系的なプログラムの有効性も疑いたい。

 「人間が限界を超えるくらい情報を浴びると、どこかの段階からだんだん物事が分節して見えてきて、これやって、次はこれやって、その次はこれって考えられる。」


 さて、この対談相手の並びで少し異色と感じられるのが漫画家井上雅彦だろう。しかし熱心なファンには、その意味がわかるかもしれない。『SLAM DUNK』『バガボンド』…知ってはいるが読み込んだ漫画ではない。興味が湧いてきた。この対談で語られた「思いが届くプレイヤー」の話も面白い。今日本にいるだろうか。


 肝心の身体運用に関して、その核にいずれも「歩き方」があることに納得した。自然環境、そして歴史が培った足の運び方一つ見ても「日本とは何か」と考えさせられる。芸能や格技の型にその神髄は残っており、それを注意深く見ることは、私たちのこの先の行方にも結び付いている。「腰を落ち着けて」考えたい。

「なんだ、オレ」という夢

2018年04月08日 | 雑記帳
 明け方、久方ぶりに明快な筋のある夢を見た。知り合い(誰かは秘す)と二人で軽トラの中からある家に電話をする。前に売った品物の代金を払ってくれという催促だ。お年寄りが出て返答するが、要を得ない。そのうちに自分たちの軽トラの周りに、沢山の家族連れが乗っている車が集まり、囲まれる形となった。


 どうやら我々が「オレオレ詐欺」をしていると思われたらしい。車から降りてきた若い男が「年寄りを騙しやがって」と言ってくるので、ここは通りで他の邪魔になるからと、広い場所へ移動してから話そうという展開に。駐車場のようなところへ移り、多数に無勢なので事務所?から人を呼ぼうと、そこから離れた。


 事務所には大勢いたが、当てにしていた人が疲れて眠っていた。仕方なく、起きている江川卓君(なぜ?)に「とにかくすぐ来て」と声をかけて、元の場所へ戻る。すると、一緒に来た女性たちと子どもたちだけ並んで待っている。そこで、私は実はこういう者で…と話し雰囲気が和んだ。「ところで、男たちは何処?」



 指差す方へ向かうと、何故かそこは神社の裏手のようなところ。知り合いの姿は、男たちに取り囲まれて見えず、何か起こったようだ。我が相棒は、さかさまになって穴のような所へ吊るされている。「何してるんだ!」とすぐ止めに入って引き出す。警察を呼ばなくちゃ!他の誰も来ないのか!と思って目が覚めた。


 天井が目に入り「なんだ、オレ」と思った。諍いの場から逃げ出す気も、まして悪意もなかったのだが、判断が甘すぎる。どういう状況で、何が予想され、どんな行動を優先すべきか、全然なっちゃいないじゃないか…。もちろん経験モードの夢ではないが、何か連想できる場面が浮かびそうだ。今頃、冷や汗をかく。

街は、大怪盗なのだ

2018年04月07日 | 読書
 この短編集は、文庫化される前『十字路のあるところ』という書名で発刊されたことを最終ページで知り、少し納得した。正直イメージ化しにくい文章が続くなあと思い、今まで読んだ著者の世界観と同様な感じを持ちつつも、馴染みにくかった。それは「十字路」という場の設定が強く出されていたからではないか。

2018読了35
 『水晶萬年筆』(吉田篤弘  中公文庫)




 「雨を聴いた家」という作品中にこうある「或る十字路の中心に立つと、そこから四方に見えるその先にもそれぞれ十字路が望める。十の字が十の字に繋がり、十、十、十と蜂の巣のように張り巡らされている」。「」と呼ばれる場所や都市計画によって出来た「」だ。頭で理解できても、そこに体が居付けない。


 今、私達はたくさんの十字路を知っていて、日常的にずっと歩いているが、個に立ち戻ったときの原風景は曲がりくねった田舎道。でこぼこ道ではないかという気がする。「黒砂糖」という作品は、都会の夜道で小さな植物の種を蒔く男が出てくるが、その種と水が据えられるのは「コンクリートの隙間」なのである。


 少年時から抱いた「」への憧れは、様々な要素があったと思うが、最後にある「ルパンの片眼鏡」という作品がなかなか暗示的だ。「ルパン」を名のるその男は、路地裏から路地を抜け出て通りへ向かい、通りを渡って大通りへ出て、「街そのもの」に向かって叫ぶ。「俺はもう」「お前たちから」「盗みたいものが何もない」


 「ルパン」は、誰にも気付かれぬように盗んできたものを、今度は返してやると息巻く。それはどうやら物質的なモノではないようだ。「今はもうあっちが大怪盗なんだから」という言葉が象徴的だ。あっちとはまさしく「」のこと。様々なレベル、階層で比喩できる表現だけれど、私たちもずいぶんと盗まれてきた。

崖っぷちに追い込まれて

2018年04月06日 | 雑記帳
 先週、「里山資本主義」で著名な藻谷浩介氏(日本総研主席研究員)が来町し、講演された。様子のSNSアップは控えてほしい旨のアナウンスもあり、当ブログには言語事項(笑)しか残していなかった。しかし新聞紙上にも載ったし、一週間経過し記憶の保持も難しくなったので、限定的な感想をアップしておこうと思う。



 主催者側?の記した演題は「ソトの巻き込み方」であった。講師はのっけからそれについて「『ソトの巻き込み方』と言っている時点でずれている」と挑発的だった。つまりは「足元」の強調に他ならない。もちろん、講師とて「ソト」の重要性を認識していることに違いないが、出発点が見据えられなければならない。


 その意味で「若者が戻らない地域の共通点」として挙げた(たしか)6つの点は肝に銘ずるべきだろう。特に初めの2点は自省が必要だ。「無いもの探し、悪者探しが日課」「親が子供に『この町はダメだ』と言う」。傍観者的な物言いのレベルを越え、在住者自体が人を寄せ付けない言動を、おそらく無意識でしている。


 我が県全体を見渡してもその傾向があるから、かの将来予測統計ではないか。ふるさと教育や郷土愛を掲げアピールはするわりに、その実、個人の嗜好や家々の現実をみれば、今もって中央志向、都会羨望の眼差しを捨てきれない。そういう発想や思考の積み重ねを素直に認め、振り回されない意識をより強固にしたい。


 藻谷氏が繰り返した「秋田の人は傲慢だ」は、結局「自分で自分の首を絞めているのが分からない」の言い換えか。生活保障や向上と、コミュニティや自治体との関連を当事者感覚で捉えられない、つまり不平不満ばかり並べ、責任を他に押し付ける体質が周囲を巻き込み、崖っぷちへ追い込んでいる…犯人は誰か。

教育は現場にしか存在しない

2018年04月05日 | 教育ノート
 新聞紙上は、今度は防衛省の日報問題で目まぐるしいが、やはり個人的な関心の目はまだ文科省の「前川問題」に注がれている。今日の朝刊にも関連記事が載っている。一つは文科省側からのメールの「黒塗り」要請問題。とにかく批判を避けようという意図にしか見えず、動けば動くほど黒くなっていく典型だ。



 小松郁夫氏が識者評論として「前川授業問題」と題し寄稿している。管理職当時に何度もその文章に刺激を受けてきた。恥ずかしながら本県出身とは知らずにいた。論理的な切り口で、問題点を三つズバリと指摘している。文科省、教委、学校の「法制度的な権限関係」、そして「学校の教育課程編成権限」に関わる点だ。


 そのどちらも文科省が権限を越えた、また根拠が不明確と、批判している。三つ目として前川氏の講師としての適格性に関して述べている。個人的な見方とも言えるが、その評価は高い。何より強調しているのは義務教育の「中立性」という点で、「歴史的経緯」「歴史的教訓」と繰り返し、その対応に警鐘を鳴らした。


 偶然なのか「くらし」という文化欄に前川氏本人の連載が始まった。「学びの解体新書」と題されたその文章は、経験をもとに「自由につづる」趣旨のようだ。自主夜間中学への手伝いを通して、「学びの現場」の嬉しさや楽しさを綴っている。天下り斡旋そして加計問題等で眉唾と感じる向きもあろうが、素直に読みたい。


 昨年の退職時に、文科省職員へ宛てたメールを彷彿させる次の文章が、教育現場には心強い。その言葉にシンパシーを感じて仕事をしてくれる人も多いと信じたい。

 「私がやってきたことは教育行政であって、教育そのものではない。教育は現場にしか存在しないのだ。(略)文科省は『雲の上』と言われることがあるが、本当は『縁の下』であるべきだ。そこを勘違いしないよう、常に心してきた。」

60冊読んで一歩も…

2018年04月04日 | 雑記帳
 飽きずに、しかもいっこうに捗らない書棚整理を続けている。これ以上減らすには少し思いきりが必要だなと、愛着が残っている文庫本も手放すことを決意。伊坂幸太郎、そして伊集院静を一掃するか、と出してみたら伊集院のモノだけでほぼ60冊あった。そうだよなあ、文庫版になったら即買いが多かったからなあ。



 昔「ダスティ・ホフマンになれなかったよ」(by大塚博堂)という曲があった。映画俳優とは違うが、憧れという気分を持ち続けたことでは、さしずめ「伊集院静になれなかったよ」とは言えるかな。60冊も読んでみても一歩も近づかない。少なくない人が頷くと思うが、伊集院は、男が憧れる男の条件を満たしている。


 無頼というキーワードを持ちながら、酒、博奕、美術、女性?遍歴など多彩な要素に満ち溢れているからだろうか。改めて読んできた作品を眺めてみると、ある意味では不器用なイメージが残る。題材の範囲が広いわけではなく、出自や幼少期、青年期、交友、恋愛経験などから物語の筋を拵えた作品が圧倒的に多い。


 読んでいて圧倒されたのは、いわゆる「海峡三部作」の『海峡』『春雷』『岬へ』、それから『お父やんとオジさん』だった。自らの体験や家系に関わる出来事がベースにあった。『羊の目』という侠客を主人公にした長編も印象的な作品だ。闇社会の中を生きる男の生き様…難しいジャンルだが、リアリティを感じさせた。


 初期作品では『乳房』がやはり忘れられない。夏目雅子のイメージも重なる。『機関車先生』も良かった。映画では口のきけない教師役を坂口賢二が演じていた。ふと「風情」という言葉が浮かぶ。平坦でない独特の匂いたつ人物を登場させるのが、この作家の個性だな。と、今頃になって、風情の乏しい一読者は得心する。

オレが嘘つきだった頃

2018年04月03日 | 教育ノート
 昨日「」のことを書いていたら、あることを思い出して懐かしくなった。

 旧いブログに書いていたはず、と探してみた。

 いろんな学校で、こんなふうにずいぶんと嘘をつきながら、楽しんでいたなあ。


--------うそつきがやってきた~05/25/2005

 給食を一緒に食べている2年生に
「先生は何歳?」
と聞かれたので、いつものように(笑)「18歳」と答えた。

 それを聞いた周囲の子は、なんとかそれが違うことを証明しようとする。
 他の班の子や職員に対して
「先生、何歳だと思う」
とか
「18歳って嘘だよね」
などと訊いてまわる。

 次に行ったときは
「先生が18歳というのは、5対1で違います」
などと他人の情報をもとに宣言してくれた。

 それでも私は「18歳だ」と言ってひるまない。

 その次に行ったときは、家の人に訊いたことをもとにする。
「お母さんに聞いたら、違うって」

「お父さんよりも年上のはずだって言ってた。お父さんは三十いくつだから」
と信頼感のある保護者意見で攻めてくる。

 それでも、私は平然な顔をしている。

 次は、少し力がアップした発言をしてくる。
「だいたい、18歳だったらそんなにシワがないでしょ」

「そうだよ、それにその二重あご…」
などと観察力を発揮してきた。

「よけいなお世話でしょ。誰にだってシワがあるよ、ホラ」

「えーっ、だってえ」
とそのまま無言。


「18歳だったら、先生になれないはずだよ」
 ある日、いいことに気づいた子がいた。

「そうだそうだ。大学を卒業しなくちゃならないんだよね」
「そうだ、やっぱりおかしい」
とかなり声が大きくなってくる。

「いや、先生は天才だから。小学校を3年で卒業、中学は1年。高校も1年で…」

 疑惑の眼差しが一層強まる。


 毎週のようにこんなことを繰り返していて、

 ついに、昨日はこんなことを冷たく言い放たれた。

うそつきがやってきた。」

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嘘に込められた夢

2018年04月02日 | 雑記帳
 久しぶりにエイブリール気分を味わう。昨日の地元紙「秋田魁新報」でいつものように1面の見出しをみた後、裏のテレビ欄に目を通した。下部が自動車ディーラー広告で「世界初!秋田スズキ限定モデル」とあり、12人乗り軽ワゴン!というコピーと写真が…えーっ本当?どうしたら出来るの?と真に受けてしまった。


 紙面をめくっていくと他にも怪しげな広告が…「ハート型のすじこ入り、しあわせすじこ」(水産会社)「もう滑らない!発熱タイヤFIRE」(タイヤ販売店)「ドローントラック即日配送サービス開始!」(レンタリース)…ああ、やられた。「本日、4月1日はエープリルフールです」との全面広告は14社が協賛していた。



 「USO」というロゴマークを、該当広告に入れることを1面に小さく断っていた。それにしても、なかなか粋なことをやった。意見・感想等の宛先アドレスを載せている箇所には「できればやめてほしいけどお叱りも」と細やかに入れてあり、苦情も覚悟という余裕も感じられる。このセンスはどれほど伝わるか。


 ジャーナリズムの象徴たる新聞が、嘘の情報に紙面を割くことなどケシカラン!と立腹するとしたら、どんな場合か。信じてすぐメーカーや会社に電話し予約するとか…。しかし、それはきちんと隅から隅まできちんと読んでいない証拠だ。いや、読み方は読者の勝手だから紛らわしい情報を流す方が問題だ!とか云々。


 ともあれ「広告で秋田に笑顔を!」が趣旨だ。ジョークやユーモアを広げようという取組みには賛成する。そして、悪意や隠蔽の意図をもつ情報が膨れあがり、真実の行方が見えない今だからこそ、少し余裕を持って、「嘘」に込められた夢や希望、憧れといった要素に気づきたい。それこそ未来への原動力ではないか。


 ちなみ、一番目に留まった広告はこちらへアップしました。
 よかったら、ご覧ください。

想像力の遣いかた

2018年04月01日 | 読書
 もう十数年前の文章であり、著者自ら「決して汎用性の高い知見を語っていると思われない」と記してもある。しかし私にとっては、人生という道で一服するために茶屋に立ち寄り、そこで爺様の語るウンチクに耳を傾けているようで心地よい。疲れを少し癒しつつ、よしっとまた足を運ぶための気付け薬でもある。

2018読了34
 『待場の現代思想』(内田 樹  文春文庫)


P173
 目的地にたどりつくまでの道順を繰り返し想像し、その道を当たり前のように歩んでいく自分の姿をはっきりと想像できる人間は、かなり高い確率でその目的地にたどりつくことができる。「夢を実現する」というのは、そういうことなのである。

 これは大きな将来設計にも言えるだろうし、日常の仕事などについても当てはまるだろう。「絶対合格」といった貼り紙の有効性の「存在」は、消えてなくなることはない。だからこそ、自分や他に示す言葉は大事にしたい。

 さて、上で使われた「想像」はイメージするという一般的なレベルだが、この著の中のハイライトともいえる「想像力と倫理について」の章は、ずいぶんと考えさせられることが多い。

P216
 想像力というのは、「現実には見たことも聞いたこともないもの」を思い描く力である。(略)想像力を発揮するというのは、「奔放な空想を享受すること」ではなく、「自分が『奔放な空想』だと思っているものの貧しさと限界を気づかうこと」である。

 著者は「人の身になって考える」という言葉を信用しない。
 かつて(今も?)、学校教育では「子どもの立場に立って」のような常套句が使われたが、個人的にはひどく懐疑的であった。所詮、無理なことをその美しい言葉に載せようという甘さを感じたからだ。
 その詳しくはひとまず置いて、ウチダ先生はこんなふうに書く。

P214
 私たちが、ほんとうに想像力を使うことが必要なのは、「共感できる人間」についてではなく、「共感できない人間」についてではないか。

 本当に大事な教えだと思う。
 自省すれば、「共感」はよく使い、他にも求めてきた。しかしそれはきっと「共生」のための必要条件でも十分条件でもない。
 むしろ、共感できなくても共生できる力が求められている。

 そのために、知らなければならない事柄、身につけたいスキルはたくさんある。
 まず、目的を見失わないようにしたい。


 ここで、また寄り道。

 一昨日の人口将来予想は、ある程度予想していたとはいえ…。どう受け止めたのだろうか。もうすでに、目をつぶった人はいないか。
 ウチダ先生は、半月前のブログにこんなことを書いていた。
 http://blog.tatsuru.com/2018/03/16_0950.php

 「こんなことを続けていたら、いずれ大変になる」ことに目を逸らさない。