すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

楽観過ぎると穴に~独り視聴者委員会

2018年04月20日 | 雑記帳
 財務省の話題はツッコミどころ満載だ。やはり特権意識というのか、なかには「貴族思考」と名づけもあったが、高級官僚はあまりに感覚が離れすぎている。それにしても大臣は凄い。「経済成長感じない人は、よほど運が悪い」もかなり迷言だ。かつて「下々の皆さん」と言わしめた思考は、中折れ帽子によく似合う(笑)。


 「月曜から夜ふかし」は下ネタ以外も笑える。秀逸だったのは飲み屋から出てきた数人の会社同僚の絡み。古いが「勝ち組・負け組」を口にした。負け組と称された男性に、スタッフが「何かやったんですか」と尋ねる。間髪入れずに「何もやってないからでしょ!決まっているでしょ」と息巻く。封建社会は続く。


 昨秋頃から小沢健二が再びメディアに登場し、注目度が高まっているように思う。ある世代のカリスマ的存在になっているのも頷ける。2月だったか、Mステで満島ひかりと共演したのはとても良かったと、少し検索したらitunesでこんな動画を配信していた。知的なセンスもさすがだし、詞の読み方にも味がある。


 気がつくと圧倒的に女性シンガーを聴く率が高くなっている。それは魅力的な男が出現できない世の中になったからか…とまた余計な蘊蓄を言いそう。最近の注目は吉澤嘉代子。これは初めて聴いたとき小谷美沙子かと思ったほどだ。詞もいいし独特の声遣いに魅力がある。あとは「あいみょん」に眩しさを感じる。


 視線を男に移すと、斉藤和義の新曲「青空ばかり」がなかなか良い。男の不甲斐なさ、いい加減さ…そして、しなり強さがよく表現されている齊藤らしい曲だ。「もっともらしい言葉」を求めてもそれに染まらない、けれど「最後にはなんとかする」という、ある意味旧い男像が見える。が、楽観過ぎると穴に落ちる。



今頃ですが、コペル君。

2018年04月19日 | 読書
2018読了43
 『漫画 君たちはどう生きるか』
 (吉野源三郎作・羽賀翔一画  マガジンハウス)




 昨夏に発刊され話題を呼んだ漫画版を、読んでみた。といっても原作も読んでいるわけではない。素直にいい出版だと思った。それにしても200万部突破とは…。売れ行きは大人から子へのプレゼントが多いようという噂?だ。頷ける。大人は「願い」を伝えたいのだろう。しかし肝心の大人は中身を読んでいるのかな。


 中学校生活における友情や格差等をテーマにしたありがちな展開とも言える。ただ、コペル君の葛藤に寄り添うおじさんの手紙と行動が、程よく「斜めの関係性」を保ち物語の筋を担う。おじさんがコペル君の言動を見つめて、豊富な例示や喩え話によって深めさせる場が心地よい。現在の社会に足りない姿でもある。


 発刊される前ではあったが、池上彰氏が原作をもとに中学生に特別授業をした報道があった。池上氏が常々言うこととこの本の主張は重なる。曰く『自分の頭で考えろ、自分で決めろ』…数々のバラエティ等で豊富な知識と分析を繰り出す氏は、いつもそこを強調している。材料、視点、手順等の提供が鮮やかなのだ。


 文藝春秋誌に池上氏と原作者の息子吉野源太郎氏の対談がある。そこで池上氏は、道徳教育の進め方について危惧を述べ、さらにこのように語っている。「『君たちはどう生きるか』にこめられたメッセージは、道徳以外の面でも文部科学省が定める教育方針へのアンチテーゼにもなっています」。耳を傾けたい見識である。


 今、推進されている英語やプログラミング教育が、本当に「自分で考える力」と結びつくのかどうか、そこが問われる。国全体の進め方と同時に、個々の学校や教室実践が見失ってはならない肝だ。それは携わる大人に対して「君たちはどう生きるか」を問いかけている姿に見える。この流行本は侮れないと気づく。

死者に表れる人権とは

2018年04月18日 | 読書
2018読了42
 『孤独な死体 法医学で読み解く日本の今』(上野正彦 ポプラ新書)


 ちょうどひと月前も、著者の本を読み感想メモを残していた。その時も書いたが、昔と違って法医学が登場するTVドラマが一般的になった。フィクションとして、物語性を織り込みやすいということだろうか。「死者は嘘をつかない」設定が作りやすさに結びつくか。現実が、多種多様な姿を見せていることも要因だ。


 あとがきの結びとして次の文章がある。「死者の人権が守られ、彼らの死がよりよい生へのヒントになることを心から祈るばかりである」。「死者の人権」とは重い言葉だ。考えると、人権とは当の本人にあるものに違いないが、周囲に及ぼす価値が当然ある。家族や身内はもちろん、「死に方」が背負うものは結構大きい。


 その意味で「子どもの自殺は他殺に等しい」という著者の主張に強く頷ける。例えば、いじめ、一家心中などは典型的である。法医学者の目で死体を観察した時に、そこに現れる衝動性、無計画性が未熟な自我であることを、著者は読み取る。本当の「死因」とは何かに向き合うことは、まさに人権の問題であろう。


 この書では、自殺以外にも乳幼児の虐待死、高齢者の孤独死、そして過労死の例が取り上げられている。いずれも、数十年前には件数が少なくあまり表面化していなかった。社会構造の変化とともに顕在化してきたが、著者を初め監察医等の尽力も見捨て難い。まだ全国的に普及していない事実は残っているのだが。


 「死に方」が「生き方」以上に話題になる社会、それは明らかに進行中である。きっと死因からわかることは、ほとんどの場合その人の必然なのだろう。どんなふうに生きたかが表れる。言い方を換えれば、いかに人権を守ろうとしてきたかも問われる。生きている以上偶然は付きまとうが、結局、自分が引き寄せている。

書に諭された一瞬

2018年04月17日 | 雑記帳
 日曜日に秋田市で『漫才サミット』という公演があり、わくわくして出かけた。しかし、なんと強風の影響で飛行機が空港に降りず、中止になってしまった。中川家、ナイツ、サンドイッチマンによる共演、プレミアムチケットになっているほどの人気企画である。漫才に絞って観ることは稀なので、本当に残念だった。


 小雨の中、会場入り口で中止のアナウンスが繰り返され、ほとんどの人が肩を落として戻ってくる様も珍しいものだった。「せっかく休みを取ってきたのにぃ…」と残念がる声も聞こえ、入口付近では泣いている女の子も…。遠くから来たのかなと想像してしまう。こんなこともあると苦笑いで済ませる自分はいい方だ。


 さて、映画でもと検索したが観たい気にさせる作品もなく、近くの施設の中へ入る。大がかりな展示なかったが、書道展があったので覗いてみることにする。伝統ある会の第五十回記念ということで、当町の見知った方の篆刻作品も並べられていた。書くのはもとより鑑賞する力も足りないのだが、一つに目に留まった。



 それは作品そのものというより、書かれた漢詩の方に関心が向いた。それは夏目漱石の「題自画」。全くこの分野の素養がなく、学生時代に見ているかも知れないが、実質的には初見である。漱石の俳句にはいくつか馴染みがあるけれど、この五言絶句は、何か格調高く、浅学な自分にとっても心に迫ってくるものがある。


  題自画(自画に題す)

 獨坐聽啼鳥(独り坐して 啼鳥を聴き
 關門謝世嘩(門を関(と)ざして 世嘩(せいくわ)を謝す
 南窓無一事(南窓(なんさう) 一事無く
 閑寫水仙花(閑(かん)に写す 水仙の花


 調べると漱石には「題自画」つまり自分の書いた画の余白に書いた詩が、これ以外にも有名な作品があるようだ。いずれも心静かに対象と向き合って、世の中や自分を見つめ続ける。いわば「隠遁者」としての矜持ではないか。漫才なんか観て笑っちゃいたいという心は如何なものか、と書に諭された一瞬(笑)でした。

ホギダス力を取り戻せ

2018年04月16日 | 読書
Volume100
 「桃子さんの故郷では吐(は)き出すと言わない。吐(ほ)き出すと言う。「は」では弱い気がする。『ほ』には意志と力感がこもっているではないか。」


 先日読了した『おらおらでひとりでいぐも』(若竹千佐子)の中の一節。
 夫を亡くし一人暮らしとなった主人公の桃子が、ある日ラジオから流れたジャズに合わせて、気が狂ったように踊りだす。真新しい仏壇の前で服を脱ぎ捨て真っ裸になるまで踊り狂う。そして、悲しみを「吐(ほ)き出した」。


 この文章を見て、久しく使っていなかったなあと思った。
 「はき出す」という場がなかったわけではないが、それを「ほき出す」(正確には、ホギダス)と言っていたのはいつ頃までだったろう。

 ところで、この言い方は当然『秋田のことば』にも載っていて、秋田や岩手の方言ということだろうが、実は普通の国語辞典にも見出しとしてあった。
 手持ちの電子辞書では三種類の辞典にある。
 いずれも【「はきだす」の変化したもの、転】とされている。
 東北に限ったことではないようだ。

 とすれば「ほく」はあるのかな、と追究モードになった。
 「ほく」と検索すると「北」「発句」「祝・寿」「惚・呆」などが出てくる。これらは漢字を見ただけで、すぐ意味が連想できる。

 しかし、一つだけ広辞苑に「ほく」というひらがな表記があった。
 この意味は次のように書かれている。

 【物の地に落ちた時の音

 もしかしたら、これかもしれない。
 例えば、スイカの種を「ほき出す」ときには、なんとなくそんな感じもするではないか。
 音のイメージが、その勢い(意志や力感)につながっているのかな。

 などと勝手な解釈をしてみた。
 悩み事などがありそれを解消しようとするとき、中途半端に「はき出す」のではなく、「ホギダス」くらい強い方が効力があるだろう。

 受け止めてくれる対象が、モノや地面であれ、人物であれ、それらがたじろぐ様な強いパワーで出してこそ、何かが生まれる。

 ホギダス力を取り戻さねば(笑)。

「吉」と信じて行け!

2018年04月15日 | 雑記帳
 何気なくつけたAMラジオが、占いをしていた。「〇〇星占い」というコーナー名で、「さそり座の今日の運勢は…」と毎朝TVでもやってそうな内容なのだが、思わず「えっ」と聞き直したのが「今日のラッキープレイスは…」という箇所。「かに座の今日のラッキープレイスは…由利本荘市です」「いて座は…大森山です」


 なかには「道の駅大内」という箇所も…。なんと特定地名、施設等名を挙げている。いやあ、これは面白いというか、ここまで来たかという感じだ。「吉方」を表わす「南」とか「北西」とかはあったし「場所」としては「海」とか「ショッピングセンター」等はあったかもしれない。それをここまで限定して言うとは…。


 星占いで「お告げ?」がそこまで詳しく出てくるとは思えないので、方角や分野、種類などを総合して当てはめたのだろう。県内放送局なので、出かける際の参考にという親切なのかな。しかしどんな聴者層を対象と想定しているのか。ちなみに私はうお座、「田沢湖」と出ました。今、わざわざ出かける場所ではないよ。


 いや、それでもラッキープレイスと信じて行くことが幸運をもたらすのかもしれない。そうした積極性を促し、人の移動が活発になれば県内経済も多少は潤うはず、という前向きな占い(笑)と言えるかもしれない。そういえば、と思い出した。昨年末は出来なかったが、我が家の食工房でも「おみくじ」を作ったことがある。



 その時の写真がこちら↑ このブログにも「吉」について書いたことがあった。どんな中身かというと「貴方の来年の運勢は『吉』です。旅にツキがあります。来年のラッキースイーツは「チーズケーキ」ですよ」などと某易断所の資料を基に練りに練った(笑)内容だった。とにかく「吉」を呼ぶためにはアクションです。

本当に「逃げる」人間は

2018年04月14日 | 雑記帳
 「ドラマのような」と言えば顰蹙をかいそうだ。しかし、ドラマチックなことは確かな騒動、事件があった。一つは松山刑務所からの受刑者脱走。島へ逃走したので、警察が島を封鎖し、人員を割いてもロータリー作戦のように捜しまわってもなかなか見つからない。泳いで海を渡ったかなどという憶測もでる始末だ。



 何故捕まらないのか。二つの要因が報道されている。一つは脱走者自身の「逃げ上手」、以前事件を起こした時も山へ潜伏していた経験があるらしい。周囲もその「能力」を語っている。もう一つは「空き家の増加」という問題。こうした場合も簡単に立ち入れないと知ると、様々な複雑さに覆われている社会に気づく。


 茶化す気持ちはないが、先日TVドラマ化されていた「小野田さん」のことをふと思い出した。人の目から逃れる方法に長けていることは、一つの才能だ。更生できればいいと思う。もう一件は、若い警察官による同僚射殺事件。驚いてしまった。刑務所脱走者同様に犯罪者ではあるが、どこか対照的な感じも受ける。


 報道では3月下旬に出会ったというではないか。実質数日間の関わりだろう。あまりに「決着」が早すぎる。この短絡さは衝動性ということだけで済まされるのだろうか。「(関係から)逃げたら良かったのに」「拳銃を力と思ったのか」…そんな単純な想いでは計り知れないのかもしれない。しかし哀しい踏み出しだ。


 もちろん脱走者を容認しているわけではない。しかし「なんとかなる」思考というか、精神力の強さが行動を支えている。吉村昭の小説『破獄』の主人公は、つながれた特製の錠を味噌汁によって腐食させて脱獄した。本当に「逃げる」人間は、エネルギー、研究心、持続力、楽観性…多くの要素を持っている気がする。

ハイッ、むの先生

2018年04月13日 | 読書
2018読了41(5冊シリーズ)
 『100歳のジャーナリストからきみへ』(むのたけじ・菅聖子  汐文社)


 写真はこちらへ→http://spring254.blog.fc2.com/blog-entry-10.html

 「生きる」「学ぶ」「育つ」「平和」「人類」という全五巻。体裁は同じであり、見開きの右側ページに、むのの短く鋭いコトバと写真や補足的なことが載っている。左ページは菅による解説的な文章。そのコトバの背景を説明したり、むのが語った言葉を添えたりしている。小中学校の図書館には揃えたいシリーズだ。

 子どもの目になって、というより、今の自分として素直に読んでみて、より強く感じる箇所があったのは、圧倒的に「学ぶ」の巻だった。「学ぶ」本質をよく表していると思ったのは、次のコトバだ。


 学ぶ営みは一人で始めて、
 一人へ戻っていく。
 始めた自分と、
 戻っていく自分との間に、
 たくさんの人が入れば入るほど、
 学んだものは高くなり深くなる。


 ここには、「学校」の存在価値がすばりと言い表されているようだ。ちなみに、そのページに添えられた写真は「1930年代、母校六郷小学校の全景」である。


 学び方に関して、独特のコトバがあった。

 人間の観察眼は三種類ある。
 望遠鏡の目と、
 顕微鏡の目と、肉の目。
 観察を洞察へ高めるには、
 三種類の活用に
 軽重をあらしめてはならぬ。



 「望遠鏡の目」「顕微鏡の目」に関しては、類したコトバは多い。しかし「肉の目」とは…。これは、菅の解説には「等身大の視点で見ること。正面から向き合って、見えたものや感じた気持ちを大切にしましょう。」とある。この肝心かなめとも言える「肉の目」は、むのが一番強く保持し続けたものではないか。



 読書三昧を続けているグータラを元気づけてくれるコトバもあった。

 雑食の胃袋を持つ人間は、
 頭脳にも雑食が必要である。



 さらに、読書の作法についても、こんなふうに語る。

 読書は第四の食事である。
 望ましい作法は、(略)
 毎日欠かさず適量を摂取すると
 一番ためになる。


 「ハイッ、むの先生」と元気のいい声で返事をしたくなる。

そのチームワークでいいのか

2018年04月12日 | 読書
2018読了40
 『個人を幸福にしない日本の組織』(太田肇  新潮新書)


 まえがき冒頭の一文は「日本の強みはチームワークである」。そうだと頷くか、いやと否定するか。アンケートをとったらどう決着するだろう。肯定派が多い気がする。この新書は、書名や第一章「組織はバラバラなくらいがよい」が示すように、ある意味でそのチームワークを否定し、問題点を挙げている書である。


 10年くらい前だったろうか、ずいぶん「チーム」という語が叫ばれた時期があった。医療ドラマあたりが走りではないかという気がする。また日本のチームワークがスポーツの場でもてはやされることは常時ある。例えばリオ五輪の陸上400MR、最近では平昌五輪のアイススケートパシュート競技の活躍もそうだろう。


 しかし、それらはかなり限定された場面ではないか。他の競技スポーツの例は持ち出すまでもない。決められたことに最大限の工夫をし、複数で同様に突き詰めるタイプは得意だが、その範囲に留まる。この国の独自性、強みと認めつつ、もはやそれに固執していては取り残される。限界にきていることは承知済みだ。


 旧態依然としたチームワークを要求する「組織」のが、毎日のように報道されている。本書では役所や大企業の不祥事を、性質により分類する。「粗暴型」「たるみ型」「私益追求型」「未熟型」「組織エゴ型」「ゴマすり型」…今、目立つのは後半2つ、これらはいわば「管理強化」が逆効果を生みやすい型と指摘する。


 組織論理の肥大化や上意下達思考からいかに脱出するか、その秘策が多く語られた一冊だ。「厳選された人材は伸びない」「入試選抜に抽選を取り入れる」「個性あるまちづくりが、住民の個性を奪う」…一見奇抜に見える言辞も、少し考えれば突飛な発想とは思えない。健全な個人主義が組織や社会を支える仕組みが必要だ。

おらおらでひとり読むお

2018年04月11日 | 読書
 不安定な空模様。そんな中でも「強敵」スギ花粉は飛ぶ。
 用事以外は少し外出を控え、読み浸ることに。


2018読了37
 『働く男』(星野源  文春文庫)


 マルチプレーヤーとでも言うのだろうか。それにしてはオーラを感じさせないのはどういう訳だ。気取りが微塵もないからか。それはそれで凄い。
 「俺を支える55の○○」というページでは、大好きだったり、影響を受けたりしたヒト、モノなどを挙げている。自分にも当てはまるのを数えたら8つあった。つまり15%くらいのシンパシー。なかなかいい線だ。

 それにしても10年ほど前、文芸誌に載せたという短編「急須」は上手だったなあ。人を見る目の優しさ、行動の裏に潜む感情の読みとりなど、小説を書き出してまだ間もない頃だったろうし、ちょっと恐れ入る才能だ。


2018読了38
 『たいまつ 遺稿集』(むのたけじ (株)金曜日)


 亡くなった一昨年の前半に書かれた文章である。その年6月に横手で講演することを知り申し込んでいたのだが、結局体調を崩し来県できず、とても残念に思った。
 まさに「生命の灯」を最後まで絶やさず、正義や反戦を訴えている。特に若い世代に対する期待が多いことに、願いの強さを見る。

 面白いエピソードがあった。昔「たいまつ」の出版記念会を、地元横手の「保守の親分」たちが催してくれた。何故?と訊くと「たいまつは、おらだちの敵だ。だからつぶすわけにいかぬ」と誰も同じ言葉を発したのだという。
 「今は昔」の懐の深さに感じ入った。


2018読了39
 『おらおらでひとりいぐも』(若竹千佐子  文藝春秋)


 出だしから、なんというか心をわしづかみされるような感じを受けた。芥川賞作品は敬遠しがちだったが、この書名を見て心動かされ、斎藤美奈子の書評を読み、即注文した。
 岩手出身の2歳年上の女性が書いたこの物語は、斎藤評するところのまさに「玄冬小説」。
 読み手である自分も、いわば「白秋」終盤に差し掛かった年代、しかも同じ東北出身者には、びしびしと響いている文章だった。

 方言を使った語り口ゆえにより強く共感できた、心底をゆさぶるような数々の独白に、引きずり込まれたような読後感を持った。