すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

FACTFULNESSに一歩ずつ

2020年02月18日 | 読書
 「先進国」「途上国」という語を自ら口にすることはめったにないが、画面で目にしたり耳にしたりすることは頻繁だ。その時に私たちにはどんなイメージが湧いているのか。途上国と聞き浮かぶのは、アフリカや南米の奥深い地域だろうか。そんな単純な想像や思考が、いかにあさはかであるかを思い知らされる本だ。


 【FACTFULNESS】
 (H・ロスリング、O・ロスリング、A・ロスリング著 上杉周作、関美和訳)


 FACTFULNESS(ファクトフルネス)は、著者による造語である。「マインドフルネス」は瞑想ブームと相まって、かなり普及した概念となった。こちらは、どうなるだろうか。Factとfullnessを合わせて造語とし、具体化すれば副題「10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しくみる習慣」ができ上がってくる。


 世の中にデータは溢れている。新聞やTV、ネットでの情報を日々目にし、様々な場においてデータ、エビデンスなどと口にしたりしている。情報化、グローバル化が進んでいることを背景にして、世界の主要な事実をそこそこわかると思っているとしたら、大抵の読者は冒頭の13問クイズによって、打ちのめされる。


 正解と思った多くが外れることよりも、高学歴者、科学者、国際問題に興味のある者まで正解率が低い事実が示されることに驚くだろう。それは「10の思い込み」によって、ドラマチックな見方をしてしまうからだ。人間に備わっているドラマチックな本能は必要なものだが、抑えなければ正しい認識には近づけない。



 先進国と途上国に分ける発想は「世界は分断されている」という思い込みによると第1章で示される。もちろん貧しく乳幼児の死亡率が高い国は存在するが、数的な根拠で境界線を引き「4つの所得レベル」によって姿が具体的になる。1日所得2ドル以下10億人、2~8ドルは30億人、8~32ドルは20億人、それ以上が10億人。我が国は…。
(つづく)

今日読み終えた本たちよ

2020年02月17日 | 読書
 朝読書は『隠蔽捜査8 清明』(今野敏 新潮社)。三日間で読了した。神奈川県警に異動した竜崎伸也の今回の壁は「公安」と「中国」。TVの刑事モノでも時々重いテーマとして登場するけれど、この展開ほどの鮮やかさを見せてはくれないなあ。やや水戸黄門状態にはなってきたが依然として痛快さが残る読後感だ。


 先週、絵本コーナーで読み聞かせ用の本を選んでいるときに見つけた『最初の質問』(詩・長田弘 絵・いせひでこ 講談社)。今は使えないがとても気に入って注文した。書棚に持っておきたいと強く感じる本に久々に出会った。高学年以上なら読める。しかし間違いなく大人向け。抱きしめたくなるような一冊だ。



 『最初の質問』の、最初の質問はこの一行だ。「今日、あなたは空を見上げましたか。」この切り出しに胸を打たれた。つまりは、そんな暮らしをしていない自分に気づかされた。もちろん、空は見上げることはある。若い頃よりは多いように思う。なのに、今の方がより強く心動かされるのは何故だろう。感傷なのか。


 先々週からの風呂場読書は『FACTFULNESS』。今日読了した。世界の様々なデータが紹介され、問題提起される。ハンス・ロスリングという医師・研究者とその一家によってまとめられた。知らせるに値する一冊だ。明日から少しずつ書こう。ちなみにこの著の挙げる「五つのリスク」のトップは感染症の流行だった。

付加価値のお告げはこう出た

2020年02月16日 | 雑記帳
 週末にコンビニに行き、思わず「のど飴」に手が出た。大阪のオバちゃんではないけれど風邪予防にもいいらしいので、つい目が行く。ふだんなら、ビタミンCや柚子・ハチミツ系が多い。しかし今回は下記のような外見に惹かれて購入。買ってしまってから自分はこんなパターンに弱いと改めて感じ、一人苦笑する。



 付加価値かあ。といっても企業用語ではなく「商品やサービスで、他の同種のものにはない価値(明鏡国語辞典)」ということ。そもそも小さい頃からオマケが欲しくてキャラメルなどを買っていた世代だから、仕方ないのか。物を製造したり売ったりする仕事ではなくとも、この考え方は確実に拡がっているはずだ。


 つまり本来の業務や内容、機能に新たな何かを加えることによって、価値を高めたり、他との差別化を図ったりすること。商品開発等はその繰り返しで発達してきたことがわかる。画期的な発明や根本的な改革などによる大きな変化はあるにせよ、平常を動かし進めていくのはそうした付加価値の工夫なのではないか。


 ただそれに目を奪われ、本来の役割や目標が薄くなってしまう場合もある。のど飴を例にすれば「美味しい」「喉をすっきりさせる」ことは必須だ。クルマだったら「安全に移動する」「利用場面に適う」か。何か別の点を加えて、その根幹が揺らげば駄目だ。物品に限らず、人が行う仕事にも当てはまるかもしれない。


 同じことを丹念に繰り返す価値は認める。しかし同時にマンネリによる陥穽も常に意識しなくてはいけない。だからリフレッシュ、ブラッシュアップのために付加価値をバランスよく講じるのだ。では具体的に何を?さあ「お告げ」を知るために「ぷっちょ」を選ぶぞ!…出てきた小袋には「結果オーライ!」。ワハッ。


旅人たちの行方は今

2020年02月15日 | 読書
 「過疎」から「へき地」というずいぶん馴染みの深い語が頭に浮かんだ。それは38年間の教職生活で半分以上(数えたら23年間だった)も、「へき地校」に勤務したから当然だ。今は統合も進み、またそれ以上にへき地指定解除も進んだから、校数自体は少ない。しかし昭和50年代には町内の約半分はそうだった。


 当時は県内も数多くへき地校があり、「へき地通信」なる印刷物が毎月か季刊で送られてきていた。若い教員が原稿を書く欄があり、2年目の5年生担任の時にお鉢が回ってきた。その時に「ブラウンさんの旅」と題し教科書に載っていた『三人の旅人たち』という物語文を材料にして雑感を書き散らした記憶があった。

 レファレンス協同データベース

 あらすじは覚えているが、妙に気になりいろいろ検索してみた。今は上記のようなデータベースがあり便利だ。『しずくの首飾り』という本は、地元図書館にはなかったし、岩波少年文庫の体裁も気になり注文してみた。8篇あるが、いわばファンタジー集と言ってよく、「三人の旅人たち」は若干毛色が違うイメージだ。

 【しずくの首飾り】(ジェーン・エイキン作 猪熊洋子訳)

 あっ懐かしいと感じたのは文章だけでなく、挿絵だった。教科書にもそのまま載っていたはずだ。訳者のあとがきに「ヤン・ビアンコフスキーの美しい装飾的な挿絵」とある。このシルエットの印象ははっきり頭の中に残っていた。こんなふうに再会できるとは、改めて「本」の素晴らしさに感謝したい気持ちになる。



 さて、あの時「ブラウンさんの旅」に書きつけたのは、「へき地」に住む子も身近な場所に喜びを見つけるブラウンさんに共感してほしいという願いと、現実的に可能かという若干の疑問だったように思い出す。この構図はなかなか揺らがない。ただ価値観の相違と突き放す時代ではない。旅の行方は未来の姿となる。

早食いババアの笑撃

2020年02月14日 | 雑記帳
 新聞のTV欄をみると、ずいぶんと頻繁に「路線バスの旅」「鉄道旅」のような番組が多い。都市部もあるがやはり地方が目立つ。例のケンミンショーにしても、ポツンと一軒家にしても、少し穿った見方をすれば、田舎蔑視、差別的嘲笑を柔らかく包んだだけとも言える。典型的なモチーフの一つは「過疎」なのだ。


 「それにしても、人がいないねえ」という台詞はそうした番組の常套句。過疎とは、昭和40年代に島根県のある町長が国会で訴えたことから、語が認知されたらしい。検索すると「1966年に経済審議会の地域部会中間報告で初めて公式に登場した」とある。もう半世紀前から問題化し、それが全国至る所に拡がった。


 公式文書における過疎の定義は「人口減少のために一定の生活水準を維持することが困難になった状態」である。当然、生活水準は語が登場した頃との比較ではない。社会基盤が整備される時代進行に合わせて、相対的な困難さが増すという捉え方だ。打開する施策が浸透しない訳は、やはり国民の意識にあるだろう。


 それはさておき、先日正月分再放送ということで、我が秋田県内のバス旅が放送され、路線バス接続の難しさの現状を「当たり前だべ」と呟きながら観た。中山秀征が地元のご婦人方と会話していて、「早食いババア?」と訊き返したシーンに笑ってしまった。「ハヤグイエバア(早く言えば)」がそう聞こえたらしい。


 その場面を観て、「早く言えば」とは「端的には」「てっとり早く説明すると」というニュアンスを持つ方言だったと、今さら気づいた。地方を取材する番組は、取り上げられる側にすればやや晴れがましい思いを持つ時はあるにせよ、それはハヤグイエバア格差を見世物の一つにしただけと、早食い爺は皮肉を垂れた。

「夢を持て」と語り逝った人

2020年02月13日 | 雑記帳
 小学生の頃からヒーローは長嶋茂雄だったが、大人になって仕事を持つようになって学びを得る人物としては、野村克也の方を断然意識した。個性的な妻サッチーとのやりとりはご愛嬌であり、野球というスポーツを通じて「本筋」を通す人、そして「本音」をさらして生きていく人という全体像の一部分に過ぎない。


 まだ読んでいる気もするが2冊分読書メモを残していた。一つはかの『野村ノート』。もう一つは、政治家野中広務との対談集『憎まれ役』だった。「策士」という形容が似合う二人ではあるが、それは理論や具体行動を生み出すためのたゆまない学習努力によって支えられている。下積みという流行らない語が浮かぶ。


『野村ノート』の本質

レッテル剥がしから


 NHKクローズアップ現代+が、逝去後すぐに取り上げた。「密着半年 野村克也さん 最期のメッセージ」は、その人生のコアな部分を凝縮していた。あまりに有名な言葉「努力は天才に勝る」は、いつの時代であっても明確に口にできる者は限られている。それを実現した者だけが、実感を乗せて語られると悟った。


 番組終盤で語られた日ハム栗山監督のコメントに納得した。現在の野球界の戦術的なセオリーを明らかにし常識にした人と言い切った。意識しないほど浸透しているから凄さがわかる。大リーグで華やかにプレーする者、今後羽ばたく野球少年たちを支える歴史を作った人だ。「夢を持て」が最期のメッセージだった。

水のとり方に頓着する

2020年02月12日 | 雑記帳
 先日読了した「世界のニュースを日本人は何も知らない」(谷本真由美)に、疲労回復の原理原則的な四つのなかの一つに「水を飲む」ことが挙げられていた。珍しいことではないが、その量、なんと一日あたり男性は3.7ℓ、女性2.7ℓだった。水分ということでなく「あくまで水」とある。ちょっと無理かなと思ったが…。


 図書館のリサイクル本のなかに『水を飲む健康法』(川畑愛義 講談社)という昭和53年刊の新書を見つけた。自称健康オタクとしては興味が湧く。もう表紙だけでその健康法の概略がわかる。曰く「生水を1日3回3分間かけて規則正しく飲めば…」ということらしい。生水が気になるが、これなら…と開いて読む。


 水を飲むことの効用については、様々な健康情報で目にしている。そもそも人間の身体を、液体を包む袋状の物質と捉える考え方がある。学生時代の体育科演習を思い出した。その原理からいえば、水こそ生命の源であり、その点はもっと意識されていい。著者は、水を飲むことによる「いいこと」7つを挙げている。


 美肌効果や肥満予防などよく知られているが、最後の「人体の恒常性を維持する」という項目が気になった。人は水さえあればかなり生き延びられるという事実に直結しているだろう。水の欠乏が身体の異常に結びつかないために、我々は絶えず水分を補給している。この水分のとり方に無頓着であっていいわけがない。


 現在著者がいう「生水」を実際手にするには難しい。代替の手段が必要か。しかし提案される量は1日に0.5~0.7ℓであり、これなら出来そうな気がしてくる。水を味わって飲むのだという。身体を通る水の行方を想うことはいい瞑想(笑)かもしれない。「1日3回3分間」という枠がもたらす規則性は案外効きそうだ。

ふたつのせかいで生きていく

2020年02月11日 | 読書
 ヨシタケシンスケの新刊が出た。

 B6サイズの小さい版。発刊する「赤ちゃんとママ社」は初めて聞いた。
 この題名だし、いつものように小さい子向けの…と思ったら…

【もしものせかい】(ヨシタケシンスケ  赤ちゃんとママ社)


 この絵本は、私にはヨシタケの総決算的な作品のように思えた。

 妄想を、「もしも」を、ずっと描いてきたわけを、ここで語っているように読んだ。


 もしも
 あれが うまくいってたら

 もしも
 あちらを えらんでいたら

 もしも
 あのひとが そばにいたら

 もしもーー


 と、誰しもが折あるごとに何度となく浮かべる思いから始まる。

 そして、「もしものせかい」へと誘われるわけだが、今までのように具体物がいろいろと変化するパターンではなく、「もしものせかい」と「いつものせかい」の違いが語られ、考え方が示されているようだ。


 どんなものでも どんなことでも
 どんなひとでも どんなきもちも
 きえて なくなったりしない

 いつものせかいから
 もしものせかいに

 あるばしょが、いるばしょが
 かわるだけなんだ




 単なる妄想とは違う、人間観や価値観が表現されている。

 自分の目の前から、具体的なモノが消えてなくなったとしても
 頭の中に浮かべられれば、その存在はずっとあり得るのだ。
 喜びも悲しみも、愛しさも憎しみも含まれるのだろう。
 こんなふうに記される。

 もうひとつのみらいとして
 いつまでも きみといっしょにいる


 「いつものせかい」「もしものせかい」
 二つを抱え、そしてどちらにも抱えられながら、ずっと生きていく。

並存する作法を自分に伝える

2020年02月10日 | 読書
 よく言ったものだ。たった13人しかいない学級。女子にそりが合わない2人がいてトラブルになる。新任教師は「誰とでも仲良くすることなんてできない」と口にしたが、どう教えるかという技能はないままだ。全く恥ずかしい四十数年前の自分。この著のいう「並存する作法」を具現化させる術は持っていなかった。


 【友だち幻想】(菅野 仁  ちくまプリマー新書)

 この新書シリーズは中高生層をターゲットにしているだろう。ただ教育関係者にとってもかなり役立つ。特にこの著は10年以上前の発刊ではあるが、今の子どもたちを理解するためのエッセンスが詰め込まれている。同時に日本社会と家族や学校組織のあり方を考えさせてくれる。新しい「つながり」の提起である。


 筆者は私たちが今感じる「同調圧力」の背景をこう表現する。「日本社会はハード的部分(物的環境や法的な制度)では十分近代化したのかもしれませんが、ソフト的部分(精神面や価値観)ではまだまだムラ的な同質性の関係性を引きずっている」…仕組みと運用のギャップという難問には、最適解は見つからない。


 それにしても集団における人間関係をうまく乗り切るための原則みたいなものは見えている。一つは「他者性」の尊重と言える。身近な家族、知り合いから、言葉の通じない異国の人まで共通する。もう一つはそのためのコミュニケーションのとり方だ。個人差も大きく、ふるまいや表現技能として鍛える必要がある。


 筆者は「言葉によって自分をつくり変える」ことを提案している。共感した。今、四十数年前の自分に「並存する作法」を教える技として伝えるとしたら、次の三つになるか。「使ってはいけないコトバを相談して決める」「やり過ごすことも大事と強調する」「振り返りを必ず言語化させる」…ああ、やっていた事もあったか。

むかし話という嘘が好き

2020年02月09日 | 読書
 昨年11月に開設した新サイト「えほんひらけば」もすっかり滞ってしまった。
 正月に「大人向け絵本」に少しハマったことも一つの原因か。
 そもそも複数手がけること自体が無理なのは、今までの例でもわかっていたはず…と学習能力の低さを露呈しただけか。流れに任せてとりあえず放置。
 で、今回の大人絵本は…。

 【絵本 むかし話ですよ】(五味太郎  方丈社)

 【絵本 むかし話ですよ 弐】(五味太郎  方丈社)




 「弐」が昨年10月刊で、あるサイトで紹介されていたのを見つけ、どうせならと思い2冊揃えてみた。
 いやはや、面白い。
 昔話のパロディーというジャンルだろうが、その料理の仕方は独特で、多様な味わいがある。

 絵本としては最初に出した方がバランス?がとれていて、弐の方は文章が少し多い。
 作品数は最初が11で、弐は6編である。


 個人的に秀逸だと思ったのは弐の「ウサギとカメとなぜかタヌキの話」。
 一番文章量も多いようだ。

 例の「ウサギとカメ」の話は、昔からよくパロディーにされる題材だが、これにタヌキが提案者として加わるという設定とその展開が実に今風で笑える。
 「個体差環境対応実践レース」なんて、言葉も登場してくる。
 もし、自分がウサギとカメに対して、レースや対決を提案するならどんなふうに働きかけるだろうか。そんな妄想もわく。
 この妄想はもしかしたら、今の自分をよく表すかもしれない。
 さしずめ、二人の好きな本を紹介しあってみませんか、などと…。


 昔話という素材は、単純な分だけ筋やモチーフが明快、強固であり、その前提をもとに多面的な崩しや妄想が可能になる。

 自分も以前、パロディ劇の脚本を書いたり、続き話を作ったりしたことを思い出す。
 この分野の面白さが自分に合う。少し書く意欲も残っているか。
 また、この作品をいつか読み聞かせにかけてみたい気がしてきた。

 しかし、小学生では無理だろう。「R15」かな。