明日は地区の神輿の渡御(とぎょ)。
なのですが、最近私に思い浮かぶ宗教問題。
長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」
中村弓子著「わが父 草田男」
村岡恵理著「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」
私は「アンのゆりかご」の最初しか読んでいないのでした。
ちょっとそこで引っかかってしまたのです。
そこには戦争中の様子が書かれておりました。
「花子の母校である東洋英和女学校で教育にあたるカナダ人宣教師は4年間、何の罪もないのに収容所に送られた。昭和17年(1942)には治安維持法違反のかどで日本基督教団の幹部が一斉検挙された。親の代からのクリスチャンである自分たち夫婦も、今は教会に通えない。たとえ、翻訳が完成しても、果たして、この小説を本にする日は来るのか。・・いつの日か刊行して、多くの人のもとに届けたい。モンゴメリという作家が書いた、明日への希望わく物語を。」
ここにある「東洋英和女学校」というのは、注がありまして「明治17年にカナダ・メソジスト派の宣教師たちによって創設されたミッションスクール。現・東洋英和女学院」とあります。
ところで、長谷川町子さんの家族は、父親が亡くなって福岡から上京します。
その父親が亡くなる頃のことを長谷川洋子さんが書いております。
「亡くなる一年位前に母は主治医から回復の見込みがないことを聞かされていたらしい。絶望して気力を失った母は、クリスチャンの親友から、『一緒に祈りましょう』と誘われて教会の門をくぐった。それからの母は、神様しかおすがりするものがなく、日曜礼拝だけでは足りず、祈祷会や方々の集会にも足しげく通った。こうして母なりに心の拠り所を得ると、父にも体の回復だけではなく、心の平安を持って安らかに天国に行ってもらいたい、というのが切なる願いになった。母の懇願で父をはじめ一家五人が洗礼を受けたのは、この頃だった。・・」(p31)
「母の子育ての柱は二つあって、一つはキリスト教の敬虔な信者であること、二つ目は人に頼らず一人で生計を立てられること、この二つであるらしかった。」(p40)
長谷川洋子さんの感想で、なるほどと思った箇所
「疎開のとき・・・ことに歎異抄は繰り返し読んだ。人は修行や善行によってではなく信仰によってのみ救われると説く他力本願のところがキリスト教に通じるように思われた。日本人だからだろうか、歎異抄を通して聖書を理解する部分も多かった。」(p58)
何気なくも、こんな箇所も印象にのこります。
母親を語っている箇所でした。
「自分の心の落ち着き所を求めて東奔西走し、ついに無教会主義にたどりついて、その居場所を見つけた。内村鑑三先生に提唱される無教会主義は、そのお弟子さん達に受け継がれて各所で集会がもたれていたが、母が導かれたのは自由が丘にある今井館だった。当時は矢内原忠雄先生が主宰しておられ、毎日曜に聖書講義があった。・・町子姉と私は母に叩き起こされて、二度に一度は母のお供をした。会堂の中には何本かむき出しの柱があり、姉と私はなるべく柱の陰になる位置に座って先生の目にとまらないよう心がけた。お講義はむつかしく理解できないところも多かったが、眠気が吹き飛ぶ程、深く引き込まれる講話だった。畏れを知らない母は、このコワイ先生とも親しくお付き合いをするようになり、呆れたことに私の結婚式の司会をしていただくことまでお願いしてしまった。・・」(p78)
「わが父 草田男」に山本健吉氏の言葉がありました。
「草田男さんからカトリシズムを除いたら、やはり草田男さんの真髄はわからないという感じがするんです。」(p44)これについて中村弓子さんは長いあとがきで「健吉氏は、母も幼少時代を過ごした長崎の出身でいらっしゃり、母が成人してカトリックの洗礼を受けたことは、長崎出身の健吉氏の、終生やむことのなかったカトリック信仰への問いかけともかかわらずにいなかったと思う。対談でも健吉氏は母の信仰に触れ、そこから『草田男とカトリック』の話題に展開された。」(p171)
話がかわるのですが、
ドナルド・キーンに角田先生が登場します。その角田先生と同じ明治10年生まれに窪田空穂がいることを知ったのは最近でした。大岡信著「窪田空穂論」には「空穂の受洗と初期詩歌」という章があり興味深いのでした。
大岡信著「日本の古典詩歌5・詩人たちの近代」(岩波書店)のなかの
p475と、それから国木田独歩にも言及しているp471
(どちらも引用していたら、画面から消えっちゃった。残念もう一度打ち込むのはやめておきます。きっと、引用のしすぎだということでしょう)
あと渡部昇一著「パスカル『冥想録』に学ぶ生き方の研究」(到知出版社)が私に思い浮かんだのでした。
なのですが、最近私に思い浮かぶ宗教問題。
長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」
中村弓子著「わが父 草田男」
村岡恵理著「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」
私は「アンのゆりかご」の最初しか読んでいないのでした。
ちょっとそこで引っかかってしまたのです。
そこには戦争中の様子が書かれておりました。
「花子の母校である東洋英和女学校で教育にあたるカナダ人宣教師は4年間、何の罪もないのに収容所に送られた。昭和17年(1942)には治安維持法違反のかどで日本基督教団の幹部が一斉検挙された。親の代からのクリスチャンである自分たち夫婦も、今は教会に通えない。たとえ、翻訳が完成しても、果たして、この小説を本にする日は来るのか。・・いつの日か刊行して、多くの人のもとに届けたい。モンゴメリという作家が書いた、明日への希望わく物語を。」
ここにある「東洋英和女学校」というのは、注がありまして「明治17年にカナダ・メソジスト派の宣教師たちによって創設されたミッションスクール。現・東洋英和女学院」とあります。
ところで、長谷川町子さんの家族は、父親が亡くなって福岡から上京します。
その父親が亡くなる頃のことを長谷川洋子さんが書いております。
「亡くなる一年位前に母は主治医から回復の見込みがないことを聞かされていたらしい。絶望して気力を失った母は、クリスチャンの親友から、『一緒に祈りましょう』と誘われて教会の門をくぐった。それからの母は、神様しかおすがりするものがなく、日曜礼拝だけでは足りず、祈祷会や方々の集会にも足しげく通った。こうして母なりに心の拠り所を得ると、父にも体の回復だけではなく、心の平安を持って安らかに天国に行ってもらいたい、というのが切なる願いになった。母の懇願で父をはじめ一家五人が洗礼を受けたのは、この頃だった。・・」(p31)
「母の子育ての柱は二つあって、一つはキリスト教の敬虔な信者であること、二つ目は人に頼らず一人で生計を立てられること、この二つであるらしかった。」(p40)
長谷川洋子さんの感想で、なるほどと思った箇所
「疎開のとき・・・ことに歎異抄は繰り返し読んだ。人は修行や善行によってではなく信仰によってのみ救われると説く他力本願のところがキリスト教に通じるように思われた。日本人だからだろうか、歎異抄を通して聖書を理解する部分も多かった。」(p58)
何気なくも、こんな箇所も印象にのこります。
母親を語っている箇所でした。
「自分の心の落ち着き所を求めて東奔西走し、ついに無教会主義にたどりついて、その居場所を見つけた。内村鑑三先生に提唱される無教会主義は、そのお弟子さん達に受け継がれて各所で集会がもたれていたが、母が導かれたのは自由が丘にある今井館だった。当時は矢内原忠雄先生が主宰しておられ、毎日曜に聖書講義があった。・・町子姉と私は母に叩き起こされて、二度に一度は母のお供をした。会堂の中には何本かむき出しの柱があり、姉と私はなるべく柱の陰になる位置に座って先生の目にとまらないよう心がけた。お講義はむつかしく理解できないところも多かったが、眠気が吹き飛ぶ程、深く引き込まれる講話だった。畏れを知らない母は、このコワイ先生とも親しくお付き合いをするようになり、呆れたことに私の結婚式の司会をしていただくことまでお願いしてしまった。・・」(p78)
「わが父 草田男」に山本健吉氏の言葉がありました。
「草田男さんからカトリシズムを除いたら、やはり草田男さんの真髄はわからないという感じがするんです。」(p44)これについて中村弓子さんは長いあとがきで「健吉氏は、母も幼少時代を過ごした長崎の出身でいらっしゃり、母が成人してカトリックの洗礼を受けたことは、長崎出身の健吉氏の、終生やむことのなかったカトリック信仰への問いかけともかかわらずにいなかったと思う。対談でも健吉氏は母の信仰に触れ、そこから『草田男とカトリック』の話題に展開された。」(p171)
話がかわるのですが、
ドナルド・キーンに角田先生が登場します。その角田先生と同じ明治10年生まれに窪田空穂がいることを知ったのは最近でした。大岡信著「窪田空穂論」には「空穂の受洗と初期詩歌」という章があり興味深いのでした。
大岡信著「日本の古典詩歌5・詩人たちの近代」(岩波書店)のなかの
p475と、それから国木田独歩にも言及しているp471
(どちらも引用していたら、画面から消えっちゃった。残念もう一度打ち込むのはやめておきます。きっと、引用のしすぎだということでしょう)
あと渡部昇一著「パスカル『冥想録』に学ぶ生き方の研究」(到知出版社)が私に思い浮かんだのでした。