山村修著「もっと、狐の書評」(ちくま文庫)に
「書評者に『名前』なんか要るでしょうか」という文があり。読後に印象深く浮かび上がる感慨がありました。それについて、書いてみたいと思います。
まあ、私のことですから、ちょっと寄り道。
2008年6月号の『諸君!』(コラム「紳士と淑女」)と『文藝春秋』(「蓋棺録」)の両方で、なくなった川内康範(かわうちこうはん)氏をとりあげておりました。
ここには「諸君!」の文を引用してみます。こうはじまっています。
「『どこの誰だか知らないけれど、誰もがみんな知っている』この単純で直截なメッセージが、ドキドキするようなメロディに乗って始まる。そんな人っているの?それは誰?それは『正義の味方、月光仮面!』。おとなも子供も疾風のごとく去っていくその背を目で追う。『月光仮面は誰でしょう』のリフレーンで歌は終わる。」
これを読んでから、しばらくして私は、時代劇の人情話に出てくるだろう。言葉を思い浮べておりました。「どこのどなたかは存じませんが、このご恩は一生わすれません。」と思いもかけずに助けられた時のセリフです。
「どこのどなたかは存じませんが」と
「どこの誰だか知らないけれど」とが、私には共鳴して感じられたわけです。
さて、それでは、山村修の文についてです。
山村さんの文「書評者に『名前』なんか要るでしょうか」です。
途中から書評コラム『風』を語っておりました。
「とくに国文関係はやたらにつよい。書評の姿勢にはついに共感できませんでしたが、私は『風』の書評からたくさんのことを教えられました」とあります。そしてその長所を上げたあとにですね、西村寿行氏の小説を料理する『風』のことに言及するのでした。「もちろん読んでもいいのですが、西村寿行『犬笛』の主人公を『頭が空っぽ』と書き、『主人公の頭の悪い小説というのは、読んでいてやりきれないものだ』などと評することに、どんな意味があるのか、私にはさっぱり分かりません。もしも西村寿行の主人公からみれば『風』(あるいは百目鬼恭三郎)など、からっきし軟弱なくせに口ばかり達者な文化人のひとりとしか映らないはずです。そういう視点が『風』には決定的に欠けています。・・・ここに書評家がはまりやすい陥穽が、暗くて陰湿な穴があると私は思うのです。この穴のなかで書かれる書評は、けっして読者に向かって本を差し出そうというものではありません。逆に、本を閉ざそうとするものです。本を閉ざして、なにを語るのかといえば、自分のことです。自分の教養、自分の眼力のことです。」
さて、ここから本題に入るのです。
「私は匿名で書いています。しかし、それは有名人が名を伏せる装置としての匿名とはちがいます。本名を記したところで、知っているひとは私の生活圏のなかにしかいません。いや、それこそ『自分のこと』を語っていることになりそうです。しかし私は、そもそも書評には評者の名など要らないと考えているのです。」
「私は書評者を採点者とは、そして本を採点対象とは考えません。書評について考えるとき、点が『甘い』とか『辛い』とか、あるいは『賞める』とか『貶(けな)す』とかいったことばを思いうかべることはありません。書評者は伝達者だと思う。肝心なのは、本を閉ざして自己主張することではなく、本を開いて、そこに書かれていることを伝えることのはずです。伝える。じつに単純なことです。しかし書かれていることをどうとらえ、どう伝えるか、それが思いのほかにむずかしい。もしも伝えるべきことがうまく、十全に、いきいきと読者のもとに届いたならば、それが書評者にとっての幸せというものでしょう。」
このあとの最後の言葉で、私は月光仮面の主題歌の『どこの誰だか知らないけれど、誰もがみんな知っている』という言葉を思い浮かべたのでした。では山村氏の文の最後。こう終っておりました。
「そしてそのとき、書評文からは評者の名前などきれいに消えて、どこを探してもみあたらないはずなのです。それで、それだけで、いいのです。」
「書評者に『名前』なんか要るでしょうか」という文があり。読後に印象深く浮かび上がる感慨がありました。それについて、書いてみたいと思います。
まあ、私のことですから、ちょっと寄り道。
2008年6月号の『諸君!』(コラム「紳士と淑女」)と『文藝春秋』(「蓋棺録」)の両方で、なくなった川内康範(かわうちこうはん)氏をとりあげておりました。
ここには「諸君!」の文を引用してみます。こうはじまっています。
「『どこの誰だか知らないけれど、誰もがみんな知っている』この単純で直截なメッセージが、ドキドキするようなメロディに乗って始まる。そんな人っているの?それは誰?それは『正義の味方、月光仮面!』。おとなも子供も疾風のごとく去っていくその背を目で追う。『月光仮面は誰でしょう』のリフレーンで歌は終わる。」
これを読んでから、しばらくして私は、時代劇の人情話に出てくるだろう。言葉を思い浮べておりました。「どこのどなたかは存じませんが、このご恩は一生わすれません。」と思いもかけずに助けられた時のセリフです。
「どこのどなたかは存じませんが」と
「どこの誰だか知らないけれど」とが、私には共鳴して感じられたわけです。
さて、それでは、山村修の文についてです。
山村さんの文「書評者に『名前』なんか要るでしょうか」です。
途中から書評コラム『風』を語っておりました。
「とくに国文関係はやたらにつよい。書評の姿勢にはついに共感できませんでしたが、私は『風』の書評からたくさんのことを教えられました」とあります。そしてその長所を上げたあとにですね、西村寿行氏の小説を料理する『風』のことに言及するのでした。「もちろん読んでもいいのですが、西村寿行『犬笛』の主人公を『頭が空っぽ』と書き、『主人公の頭の悪い小説というのは、読んでいてやりきれないものだ』などと評することに、どんな意味があるのか、私にはさっぱり分かりません。もしも西村寿行の主人公からみれば『風』(あるいは百目鬼恭三郎)など、からっきし軟弱なくせに口ばかり達者な文化人のひとりとしか映らないはずです。そういう視点が『風』には決定的に欠けています。・・・ここに書評家がはまりやすい陥穽が、暗くて陰湿な穴があると私は思うのです。この穴のなかで書かれる書評は、けっして読者に向かって本を差し出そうというものではありません。逆に、本を閉ざそうとするものです。本を閉ざして、なにを語るのかといえば、自分のことです。自分の教養、自分の眼力のことです。」
さて、ここから本題に入るのです。
「私は匿名で書いています。しかし、それは有名人が名を伏せる装置としての匿名とはちがいます。本名を記したところで、知っているひとは私の生活圏のなかにしかいません。いや、それこそ『自分のこと』を語っていることになりそうです。しかし私は、そもそも書評には評者の名など要らないと考えているのです。」
「私は書評者を採点者とは、そして本を採点対象とは考えません。書評について考えるとき、点が『甘い』とか『辛い』とか、あるいは『賞める』とか『貶(けな)す』とかいったことばを思いうかべることはありません。書評者は伝達者だと思う。肝心なのは、本を閉ざして自己主張することではなく、本を開いて、そこに書かれていることを伝えることのはずです。伝える。じつに単純なことです。しかし書かれていることをどうとらえ、どう伝えるか、それが思いのほかにむずかしい。もしも伝えるべきことがうまく、十全に、いきいきと読者のもとに届いたならば、それが書評者にとっての幸せというものでしょう。」
このあとの最後の言葉で、私は月光仮面の主題歌の『どこの誰だか知らないけれど、誰もがみんな知っている』という言葉を思い浮かべたのでした。では山村氏の文の最後。こう終っておりました。
「そしてそのとき、書評文からは評者の名前などきれいに消えて、どこを探してもみあたらないはずなのです。それで、それだけで、いいのです。」