ちくま文庫から山村修著「もっと、狐の書評」が出ております。
さっそく、ぱらぱら眺めております。
何でも文庫版のためのオリジナル編集とのこと。
そして、第9章の「もっと、狐」は、「すべて初収録」とあります。
どこからよんでも、狐。
それも、編集の成果。切れ味あり。
まるで、寅さんが街頭で叩き売りしている、口上を聞くような、そんな感じを私は受けました。御用とお急ぎでない方は、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。こうして、勤め帰りの電車の中で、『日刊ゲンダイ』をひらいては、その切れ味のいい口上で、本を叩き売るような威勢でもって、短い活字で、端的に、内容をグサリと表現してひきつけます。寅さんの語りが古くならないように、狐さんの書評が、まるで、獲り立てのバナナを叩き売りしているような、臨場感をもって、迫ってきます。まさか。と思うでしょう。それが、まさかなんです。
さあさあ、寄ってらっしゃい。本屋で見てらっしゃい。買ってらっしゃい。
「それは可笑しい、狸さん。」と語りかけながら、書評の眼目を、ゆったりと丁寧に解いてみせる「書評者に『名前』なんか要るでしょうか」が、今回私は読後感あり。
ひとつだけ、書評を引用するとしたら、山口昌男著「『敗者』の精神史」を取り上げた最初の導入部を私は取り上げたいなあ。
「読めども読めども読み切れない。山口昌男「『敗者』の精神史」は二段組み五百七十ページ余りの大冊である。ただならぬ厚さにあきれながら、毒づきながら、ヤケをおこしながら、それでも著者のすえたテーマの魅力に逆らえなくととうとう読了してしまう。本書を多かれ少なかれ、そんなふうにして読み上げた読者は、本欄の仲間である。」(p182)
そして、私は、いまだ「本欄の仲間」には、いれてもらえないのでした。
さっそく、ぱらぱら眺めております。
何でも文庫版のためのオリジナル編集とのこと。
そして、第9章の「もっと、狐」は、「すべて初収録」とあります。
どこからよんでも、狐。
それも、編集の成果。切れ味あり。
まるで、寅さんが街頭で叩き売りしている、口上を聞くような、そんな感じを私は受けました。御用とお急ぎでない方は、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。こうして、勤め帰りの電車の中で、『日刊ゲンダイ』をひらいては、その切れ味のいい口上で、本を叩き売るような威勢でもって、短い活字で、端的に、内容をグサリと表現してひきつけます。寅さんの語りが古くならないように、狐さんの書評が、まるで、獲り立てのバナナを叩き売りしているような、臨場感をもって、迫ってきます。まさか。と思うでしょう。それが、まさかなんです。
さあさあ、寄ってらっしゃい。本屋で見てらっしゃい。買ってらっしゃい。
「それは可笑しい、狸さん。」と語りかけながら、書評の眼目を、ゆったりと丁寧に解いてみせる「書評者に『名前』なんか要るでしょうか」が、今回私は読後感あり。
ひとつだけ、書評を引用するとしたら、山口昌男著「『敗者』の精神史」を取り上げた最初の導入部を私は取り上げたいなあ。
「読めども読めども読み切れない。山口昌男「『敗者』の精神史」は二段組み五百七十ページ余りの大冊である。ただならぬ厚さにあきれながら、毒づきながら、ヤケをおこしながら、それでも著者のすえたテーマの魅力に逆らえなくととうとう読了してしまう。本書を多かれ少なかれ、そんなふうにして読み上げた読者は、本欄の仲間である。」(p182)
そして、私は、いまだ「本欄の仲間」には、いれてもらえないのでした。