中村弓子著「わが父草田男」(みすず書房)の中の文「わが父草田男」は、こうはじまっておりました。
「 毒消し飲むやわが詩多産の夏来る
夏こそは父の季節であった。父は7月24日に生まれ、8月5日に亡くなった。暑い季節がやってくると家族は全員げんなりしている中で、『瀬戸内海の凪(なぎ)の暑さなんてこんなもんじゃありませんよ』などと言いながら、まるで夏の暑さと光をエネルギーにしているかのように、大汗をかきながらも毎日嬉々として句作に出かけていた。・・・」(p57)
さて、昭和11年に出版されていた草田男句集「長子」を覗いてみました。夏の句に「安房野島ヶ崎にて」という句が、そこにあります。
夏草や野島ヶ崎は波ばかり
燈台や緑樹は陸(くが)へ打歪み
野島ヶ崎燈台に上る
涼風の旗打つ如く衣を打つ
照り返す貝殻のみの入江あり
夏芝やこごみかげんに海女通る
月見草湾を距てて山灯る
明笛鳴り軍艦通る月見草
帰省の句もあります。
果樹の幹苔厚かりし帰省かな
松山城にて
炎天の城や四壁の窓深し
ここらで、明治の夏。
ドナルド・キーン著「明治天皇を語る」(新潮新書)に
明治天皇の夏が紹介されております。
「夏の間、どんなに暑くても、避暑地に行くことはありませんでした。冬も避寒地に行くことはありませんでした。日本の各地に明治天皇のための別荘ができていましたが、一度も行ったことはありませんでした。側近が静養を勧めると、天皇はこう応えるのです。朕は臣民の多くと同じことがしたい。天皇は日本人の多くが酷暑、酷寒にもかかわらず働いているのに、自分だけが一人のんびりと静養する気にはとてもなれなかった。・・・」(p89)
「明治天皇は内閣の会議には必ず出席していました。議場は夏には耐えがたいほどの暑さになることもありますが、不快を訴えることもなく議事に聞き入りました。とはいえ、一度も言葉を発したことはありません。あとで議長を呼んで質問することはありましたが、議事中はただそこにいただけです。それが自分の義務だと思っていたのです。もし天皇がそこにいなければ、内閣らしい話はなかったでしょう。長い間、内閣を構成する多くの人たちは、戊辰戦争で業績を上げた軍人たちでした。政治などの複雑かつ高度な問題にあまり興味がない者もいます。もし天皇が出席していなかったら、雑談とか猥談とか、いろいろ楽しい話をしたに違いない。しかし天皇がそこにいたために、そういう話はできなかった。大臣らしい行動をしなければならなかったのです。」(p90)
これを引用しながら思い浮かぶのは「五箇条の御誓文」でした。
そのはじまりの一箇条は「広く会議を興し、万機公論に決すべし。」でした。
五箇条を並べた最後には「我国未曾有の変革を為んとし、朕躬を以て衆に先じ、天地神明に誓ひ、大に斯国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆亦此旨趣に基き協力努力せよ。」
ところで、中村草田男句集「長子」は、春夏秋冬の順に句が集められておりました。最後の冬の句のなかに、有名なこの句があります。
降る雪や明治は遠くなりにけり
「 毒消し飲むやわが詩多産の夏来る
夏こそは父の季節であった。父は7月24日に生まれ、8月5日に亡くなった。暑い季節がやってくると家族は全員げんなりしている中で、『瀬戸内海の凪(なぎ)の暑さなんてこんなもんじゃありませんよ』などと言いながら、まるで夏の暑さと光をエネルギーにしているかのように、大汗をかきながらも毎日嬉々として句作に出かけていた。・・・」(p57)
さて、昭和11年に出版されていた草田男句集「長子」を覗いてみました。夏の句に「安房野島ヶ崎にて」という句が、そこにあります。
夏草や野島ヶ崎は波ばかり
燈台や緑樹は陸(くが)へ打歪み
野島ヶ崎燈台に上る
涼風の旗打つ如く衣を打つ
照り返す貝殻のみの入江あり
夏芝やこごみかげんに海女通る
月見草湾を距てて山灯る
明笛鳴り軍艦通る月見草
帰省の句もあります。
果樹の幹苔厚かりし帰省かな
松山城にて
炎天の城や四壁の窓深し
ここらで、明治の夏。
ドナルド・キーン著「明治天皇を語る」(新潮新書)に
明治天皇の夏が紹介されております。
「夏の間、どんなに暑くても、避暑地に行くことはありませんでした。冬も避寒地に行くことはありませんでした。日本の各地に明治天皇のための別荘ができていましたが、一度も行ったことはありませんでした。側近が静養を勧めると、天皇はこう応えるのです。朕は臣民の多くと同じことがしたい。天皇は日本人の多くが酷暑、酷寒にもかかわらず働いているのに、自分だけが一人のんびりと静養する気にはとてもなれなかった。・・・」(p89)
「明治天皇は内閣の会議には必ず出席していました。議場は夏には耐えがたいほどの暑さになることもありますが、不快を訴えることもなく議事に聞き入りました。とはいえ、一度も言葉を発したことはありません。あとで議長を呼んで質問することはありましたが、議事中はただそこにいただけです。それが自分の義務だと思っていたのです。もし天皇がそこにいなければ、内閣らしい話はなかったでしょう。長い間、内閣を構成する多くの人たちは、戊辰戦争で業績を上げた軍人たちでした。政治などの複雑かつ高度な問題にあまり興味がない者もいます。もし天皇が出席していなかったら、雑談とか猥談とか、いろいろ楽しい話をしたに違いない。しかし天皇がそこにいたために、そういう話はできなかった。大臣らしい行動をしなければならなかったのです。」(p90)
これを引用しながら思い浮かぶのは「五箇条の御誓文」でした。
そのはじまりの一箇条は「広く会議を興し、万機公論に決すべし。」でした。
五箇条を並べた最後には「我国未曾有の変革を為んとし、朕躬を以て衆に先じ、天地神明に誓ひ、大に斯国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆亦此旨趣に基き協力努力せよ。」
ところで、中村草田男句集「長子」は、春夏秋冬の順に句が集められておりました。最後の冬の句のなかに、有名なこの句があります。
降る雪や明治は遠くなりにけり