森銑三・柴田宵曲著「書物」(岩波文庫)に「青年図書」という箇所がありまして、そこに一読忘れられない言葉がありました。
「ここで私は、家庭の事情その他に依って、中等学校へ進み得ないでいる青年たちの読書のことを考えて見たい。」ちなみに、この本は昭和19年(1944)に出ております。
「中学の四、五年間に習う教科書を積んで見ても高が知れている。少し読解力のある少年なら、語学や数学くらいを除いたら、その教科書を通読することに依って、中等教育の大体に通じて、中学卒業生に近い学力を自ら修めるのも、必ずしも不可能事とせぬであろう。然らば国家的にも優秀な講義録の類を発行して、それらの恵まれざる少年に自修の便宜を与えることなども考慮せらるべきではなかろうか。・・・」(p120)
なぜ、この箇所を思い出したのかといいますと、山村修著「もっと、狐の書評」(ちくま文庫)をパラパラとめくっていた時でした。その四章「書物の筋肉が動く」の本のラインアップを眺めながらでした。私がちょうど読んだものでいえば
「一言芳談」
藤井貞和著「古典の読み方」
一海知義著「漢詩入門」
谷川健一著「独学のすすめ」
ほかに12冊が、この章にはあがっておりました。
優秀な講義録が読みたい。でもそのリストというのは、案外知りえない。そんな方に、ここにそのリストがありますよ。と語りかけたくなってくるのでした。もっとも、肝心な私がほとんど読んでいないのですから、あんまり人にかたりかけてもなあ。であります。これを機会に、私もいっしょに読みたいと思う暑さかな。であります。山村修著「狐が選んだ入門書」(ちくな新書)と、この「もっと、狐の書評」とが、私の安心できる水先案内書。とかく学校の制約の中で、ややもすると無難な言葉選びと、曖昧で萎縮しやすい講義録ですが。そこから、見事に離脱しつつ、学問と社会との通気性が快い本の紹介となっており、そのリストだけでも楽しめるのでした。
「ここで私は、家庭の事情その他に依って、中等学校へ進み得ないでいる青年たちの読書のことを考えて見たい。」ちなみに、この本は昭和19年(1944)に出ております。
「中学の四、五年間に習う教科書を積んで見ても高が知れている。少し読解力のある少年なら、語学や数学くらいを除いたら、その教科書を通読することに依って、中等教育の大体に通じて、中学卒業生に近い学力を自ら修めるのも、必ずしも不可能事とせぬであろう。然らば国家的にも優秀な講義録の類を発行して、それらの恵まれざる少年に自修の便宜を与えることなども考慮せらるべきではなかろうか。・・・」(p120)
なぜ、この箇所を思い出したのかといいますと、山村修著「もっと、狐の書評」(ちくま文庫)をパラパラとめくっていた時でした。その四章「書物の筋肉が動く」の本のラインアップを眺めながらでした。私がちょうど読んだものでいえば
「一言芳談」
藤井貞和著「古典の読み方」
一海知義著「漢詩入門」
谷川健一著「独学のすすめ」
ほかに12冊が、この章にはあがっておりました。
優秀な講義録が読みたい。でもそのリストというのは、案外知りえない。そんな方に、ここにそのリストがありますよ。と語りかけたくなってくるのでした。もっとも、肝心な私がほとんど読んでいないのですから、あんまり人にかたりかけてもなあ。であります。これを機会に、私もいっしょに読みたいと思う暑さかな。であります。山村修著「狐が選んだ入門書」(ちくな新書)と、この「もっと、狐の書評」とが、私の安心できる水先案内書。とかく学校の制約の中で、ややもすると無難な言葉選びと、曖昧で萎縮しやすい講義録ですが。そこから、見事に離脱しつつ、学問と社会との通気性が快い本の紹介となっており、そのリストだけでも楽しめるのでした。