村岡恵理著「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」(マガジンハウス)を半分ほど読んだところです。そこにこんな箇所がありました。
「花子は大正8年(1919)3月、山梨英和女学校教師をやめて東京に戻った。一昨年出版した『爐邉』が植村正久牧師の目を引き、築地の基督教興文協会の編集者に、花子を推薦してくれたのだ。『あなたはキリスト教文学に集中しなさい』植村牧師はそう言って、大正7年(1918)には花子が教師生活の傍ら、こつこつと翻訳していた『モーセが修学せし國』を、救世軍の山室軍平に頼んで、出版できるように取り計らってくれた。キリスト教界の大物である植村牧師の励ましは、花子を奮い立たせた。」(p138)
この植村牧師についてです。
国木田独歩と植村正久との関連について、大岡信氏は書いております。
「植村正久は明治の文人の一部に大きな影響を与えている。たとえば植村に師事したことは、国木田独歩の生活においてきわめて重要な意味を持っていた。『欺かざるの記』には、親しい助言者として、内村鑑三とともに植村の名がしきりに現れる。第一、独歩が明治28年(1895)佐々城信子と自宅で結婚したときの司会は、独歩をかつて受洗させた植村にほかならなかった。『独歩が一番町教会に籍をおき、植村先生を崇拝したことは非常なもので、自分の文章が簡潔に書き得ているのなども植村先生の説教に学ぶところがあったからだと、他日人に話したこともある程で・・』と信子の従妹にあたる相馬黒光は書いている(「国木田独歩と信子」)。あるいはまた、正宗白鳥は明治30年、18歳のとき、市ヶ谷のキリスト教講習所で植村正久の手で受洗し、『植村師の祈禱に和し、説教によって啓発されたばかりでなく、師の私宅を訪問して、直接に教へを受けたことが多かった』という。・・・」
大岡信氏は窪田空穂論において、空穂にとっての師として坪内逍遥と植村正久とをあげておりました。
「空穂が終世、心の師として尊んでやまなかった植村正久・・・」という箇所があります。すこし続けます。「歌集『鏡葉』に、植村牧師の逝去(大正14年)のさい、はじめて植村の説教に接したころのことを思い出して歌った歌が収められていて、そこには『先生を知りまをししはこの我の生涯の上の大き事なりき』という作があり、また『今の世の大きなる人この眼もて見ぬとよろこびその夜を寝(いね)ず』という作もまる。」
以上は、大岡信著「窪田空穂論」の「空穂の受洗と初期詩歌」に書かれております。
さてこれから私が思い浮かんだのは、山村修著「狐が選んだ入門書」に、窪田空穂著「現代文の鑑賞と批評」が取り上げられていたことなのです。その窪田空穂の文に国木田独歩が取り上げられています。その箇所を少し引用したくなります。
「・・・独歩の文章ほどひきしまった、そしてはっきりした文章はない。今一句一句について見ても、一音の無駄もない、出来るだけ引きしまったものにしている。同時に、はっきりと言い切って、聊かの曖昧も、陰影も持たせてはいない。句を連ねる上で、多くの人の愛用する接続詞さえ殆どない。その結果、文章は、強く鋭い。これが特色である。この文体は、独歩の生み出したものと見える。そういえば独歩の文章には、古典の影響が認められない。西洋の小説の影響は受けていても、それは大体の上の事で、文章の上には、それも認めるに困難だ。思うにこの文体が、独歩の気分であったらう。真実を求めてやまない独歩は、文体を外に求めずして内に求めたと見える。もし調子という言葉でいえば、この言葉の調子のない、しかし強くはっきりとした文体が、独歩の心の調子だったろうと思われる。・・・」
ここにいう「文体を外に求めずして内に求めた」という時に、窪田空穂にとっては独歩とともに、植村正久の説教のことが、「内に求めた」という言葉の、暗黙の前提にあったと、私には読めてくるのでした。それにしても「自分の文章が簡潔に書き得ているのなども植村先生の説教に学ぶところがあったからだ」と語ったという独歩。
「花子は大正8年(1919)3月、山梨英和女学校教師をやめて東京に戻った。一昨年出版した『爐邉』が植村正久牧師の目を引き、築地の基督教興文協会の編集者に、花子を推薦してくれたのだ。『あなたはキリスト教文学に集中しなさい』植村牧師はそう言って、大正7年(1918)には花子が教師生活の傍ら、こつこつと翻訳していた『モーセが修学せし國』を、救世軍の山室軍平に頼んで、出版できるように取り計らってくれた。キリスト教界の大物である植村牧師の励ましは、花子を奮い立たせた。」(p138)
この植村牧師についてです。
国木田独歩と植村正久との関連について、大岡信氏は書いております。
「植村正久は明治の文人の一部に大きな影響を与えている。たとえば植村に師事したことは、国木田独歩の生活においてきわめて重要な意味を持っていた。『欺かざるの記』には、親しい助言者として、内村鑑三とともに植村の名がしきりに現れる。第一、独歩が明治28年(1895)佐々城信子と自宅で結婚したときの司会は、独歩をかつて受洗させた植村にほかならなかった。『独歩が一番町教会に籍をおき、植村先生を崇拝したことは非常なもので、自分の文章が簡潔に書き得ているのなども植村先生の説教に学ぶところがあったからだと、他日人に話したこともある程で・・』と信子の従妹にあたる相馬黒光は書いている(「国木田独歩と信子」)。あるいはまた、正宗白鳥は明治30年、18歳のとき、市ヶ谷のキリスト教講習所で植村正久の手で受洗し、『植村師の祈禱に和し、説教によって啓発されたばかりでなく、師の私宅を訪問して、直接に教へを受けたことが多かった』という。・・・」
大岡信氏は窪田空穂論において、空穂にとっての師として坪内逍遥と植村正久とをあげておりました。
「空穂が終世、心の師として尊んでやまなかった植村正久・・・」という箇所があります。すこし続けます。「歌集『鏡葉』に、植村牧師の逝去(大正14年)のさい、はじめて植村の説教に接したころのことを思い出して歌った歌が収められていて、そこには『先生を知りまをししはこの我の生涯の上の大き事なりき』という作があり、また『今の世の大きなる人この眼もて見ぬとよろこびその夜を寝(いね)ず』という作もまる。」
以上は、大岡信著「窪田空穂論」の「空穂の受洗と初期詩歌」に書かれております。
さてこれから私が思い浮かんだのは、山村修著「狐が選んだ入門書」に、窪田空穂著「現代文の鑑賞と批評」が取り上げられていたことなのです。その窪田空穂の文に国木田独歩が取り上げられています。その箇所を少し引用したくなります。
「・・・独歩の文章ほどひきしまった、そしてはっきりした文章はない。今一句一句について見ても、一音の無駄もない、出来るだけ引きしまったものにしている。同時に、はっきりと言い切って、聊かの曖昧も、陰影も持たせてはいない。句を連ねる上で、多くの人の愛用する接続詞さえ殆どない。その結果、文章は、強く鋭い。これが特色である。この文体は、独歩の生み出したものと見える。そういえば独歩の文章には、古典の影響が認められない。西洋の小説の影響は受けていても、それは大体の上の事で、文章の上には、それも認めるに困難だ。思うにこの文体が、独歩の気分であったらう。真実を求めてやまない独歩は、文体を外に求めずして内に求めたと見える。もし調子という言葉でいえば、この言葉の調子のない、しかし強くはっきりとした文体が、独歩の心の調子だったろうと思われる。・・・」
ここにいう「文体を外に求めずして内に求めた」という時に、窪田空穂にとっては独歩とともに、植村正久の説教のことが、「内に求めた」という言葉の、暗黙の前提にあったと、私には読めてくるのでした。それにしても「自分の文章が簡潔に書き得ているのなども植村先生の説教に学ぶところがあったからだ」と語ったという独歩。