酒に弱い癖して、夏はビール。と、ついつい飲んでしまいます(笑)。
こういうときは、開き直って、酒にまつわる文ということで、たまたま目についた個所を引用。
窪田空穂全集第10巻に「平安朝の歌と実際生活との関係」(p35)という文がありました。まず御撰集の巻の三の引用をしておりました。そして
「・・・当時の習慣として、酒宴の席には、作歌は付きものとなっていた。貫之はいうまでもなく歌人として当時の権威である。主人の兼輔は、右大臣という珍客をもてなす為に、歌人にして且つ懇意なる貫之を、いはゆる接待役として陪せしめたのではないか。貫之の歌から見るとそう察しられる。次に、歌を詠み合った場合である。今日から見れば、酒を飲みながら、そこに、庭に咲いている藤の花を材料として歌を詠み合うというようなことは、極めてしゃれた、面白い、即ち特別のことのような気のされることであるが、当時としては極めて普通なことで、久しい習慣の、いつから初められたか知ろうとしてもおそらくは知られなかったろうと思われることを、旧い習慣を重んじる廷臣の心からしていたのである。
酒宴の席には作歌は付きものになっていた。人に杯を勧めるには、先ず歌を詠まなくてはならないことになっていたのは久しいことである。日本書紀の崇神天皇の巻の、クズが天皇に酒を献ずる時の歌、又古事記の神功皇后の摂政の御代、皇后か太子であらせられた応神天皇に酒を献られる時の御歌など、その古いものである。近くは、このすぐ前の時代である延喜年間、貫之らが古今集の撰をする為に宮中のかんなりのつぼに召されていた時、兼覧(かねみ)王がたづねて来られた際、貫之や躬恒が杯を取って詠んだ歌と、王の返しとが古今集の巻八に載せられている。今の場合もそれである。彼らは、その当時としては、習慣上、しなくてはならないことをしたので、何も特別なことをしたのではない。・・・」
この論文の最後の方には、こうありました。
「・・狭い宮廷を唯一の生活の場として、そこに官吏生活を送っている以上、利害関係から、つとめて意思の疎通を計らなければならなかったろう。むしろその必要に駆られてもいたろう。しかしそういう世界では、露骨と直截とは全然封じなければならなかった。封じられつつも猶、且つ言はなければならないとすると、隠約と婉曲との外はない。嗜みというのも、この風から馴致されたものであろう。これが社交でなくて恋愛の場合としても、その用意は同一である。平安朝の歌が隠喩ばかりであるのも、掛詞と縁語の繋がりばかりであるのも、又機知ばかりであるのも、彼らとしては余儀ないことである。彼らの歌の大半は、それでなければならなかったのである。・・・」
ここから、
高島俊男著「本が好き、悪口言うのはもっと好き」(文春文庫)にある
「ネアカ李白とネクラ杜甫 ・・ 高校生諸君に」の
「李白は旅をして宴会に出るのがしごとであるが、一番多い宴会は送別会である。役人の転勤か何かの送別会に招かれ、もしくは押しかけて、詩を作る。」(p198)という、この前後の文章もついでに引用しておきたいのですが、ここまで。
あとは吉田健一のエピソードも思い浮かびます。
最近ではドナルド・キーン著「私の20世紀クロニクル」だったかにも登場しておりましたが、ドナルド・キーン著「声の残り 私の文壇交遊録」(朝日新聞社)。
ということで、夏はビール。ということから、
時たま思い出したように読んでいる窪田空穂全集から紀貫之。そして李白・吉田健一と、酒にまつわる三人三様。
最後に、ドナルド・キーン氏の後悔。
「またある晩、評論家で巨漢の篠田一士が、はち巻岡田で私たちと一緒になったことがあった。いよいよ帰る段になって、三人でタクシーに乗り込んだ。しばらく走ると、吉田(健一)が大声で叫んだ。『止まれ!』。タクシーが止まった。すると吉田は外に出ていった。あとを追って、篠田が出ていった。そして両腕に吉田を抱え上げると、タクシーの席にストンと落とすのだった。それからそのあと、これとまったく同じことが、数回繰り返された。吉田はきっと毎晩、この調子で飲んでいるのだろう、と私は思っていた。ところが、本当はそうではなかったのだ。吉田が親切にも、彼の家に転がり込んで来なさいと言ってくれたのに、私がそれを断ったのも、毎晩あれに付き合わされたらかなわない、と思ったからであった。何年もあとになって、彼が飲むのは、週に一、二回くらいだということを、誰かに聞いた。・・・・」
こういうときは、開き直って、酒にまつわる文ということで、たまたま目についた個所を引用。
窪田空穂全集第10巻に「平安朝の歌と実際生活との関係」(p35)という文がありました。まず御撰集の巻の三の引用をしておりました。そして
「・・・当時の習慣として、酒宴の席には、作歌は付きものとなっていた。貫之はいうまでもなく歌人として当時の権威である。主人の兼輔は、右大臣という珍客をもてなす為に、歌人にして且つ懇意なる貫之を、いはゆる接待役として陪せしめたのではないか。貫之の歌から見るとそう察しられる。次に、歌を詠み合った場合である。今日から見れば、酒を飲みながら、そこに、庭に咲いている藤の花を材料として歌を詠み合うというようなことは、極めてしゃれた、面白い、即ち特別のことのような気のされることであるが、当時としては極めて普通なことで、久しい習慣の、いつから初められたか知ろうとしてもおそらくは知られなかったろうと思われることを、旧い習慣を重んじる廷臣の心からしていたのである。
酒宴の席には作歌は付きものになっていた。人に杯を勧めるには、先ず歌を詠まなくてはならないことになっていたのは久しいことである。日本書紀の崇神天皇の巻の、クズが天皇に酒を献ずる時の歌、又古事記の神功皇后の摂政の御代、皇后か太子であらせられた応神天皇に酒を献られる時の御歌など、その古いものである。近くは、このすぐ前の時代である延喜年間、貫之らが古今集の撰をする為に宮中のかんなりのつぼに召されていた時、兼覧(かねみ)王がたづねて来られた際、貫之や躬恒が杯を取って詠んだ歌と、王の返しとが古今集の巻八に載せられている。今の場合もそれである。彼らは、その当時としては、習慣上、しなくてはならないことをしたので、何も特別なことをしたのではない。・・・」
この論文の最後の方には、こうありました。
「・・狭い宮廷を唯一の生活の場として、そこに官吏生活を送っている以上、利害関係から、つとめて意思の疎通を計らなければならなかったろう。むしろその必要に駆られてもいたろう。しかしそういう世界では、露骨と直截とは全然封じなければならなかった。封じられつつも猶、且つ言はなければならないとすると、隠約と婉曲との外はない。嗜みというのも、この風から馴致されたものであろう。これが社交でなくて恋愛の場合としても、その用意は同一である。平安朝の歌が隠喩ばかりであるのも、掛詞と縁語の繋がりばかりであるのも、又機知ばかりであるのも、彼らとしては余儀ないことである。彼らの歌の大半は、それでなければならなかったのである。・・・」
ここから、
高島俊男著「本が好き、悪口言うのはもっと好き」(文春文庫)にある
「ネアカ李白とネクラ杜甫 ・・ 高校生諸君に」の
「李白は旅をして宴会に出るのがしごとであるが、一番多い宴会は送別会である。役人の転勤か何かの送別会に招かれ、もしくは押しかけて、詩を作る。」(p198)という、この前後の文章もついでに引用しておきたいのですが、ここまで。
あとは吉田健一のエピソードも思い浮かびます。
最近ではドナルド・キーン著「私の20世紀クロニクル」だったかにも登場しておりましたが、ドナルド・キーン著「声の残り 私の文壇交遊録」(朝日新聞社)。
ということで、夏はビール。ということから、
時たま思い出したように読んでいる窪田空穂全集から紀貫之。そして李白・吉田健一と、酒にまつわる三人三様。
最後に、ドナルド・キーン氏の後悔。
「またある晩、評論家で巨漢の篠田一士が、はち巻岡田で私たちと一緒になったことがあった。いよいよ帰る段になって、三人でタクシーに乗り込んだ。しばらく走ると、吉田(健一)が大声で叫んだ。『止まれ!』。タクシーが止まった。すると吉田は外に出ていった。あとを追って、篠田が出ていった。そして両腕に吉田を抱え上げると、タクシーの席にストンと落とすのだった。それからそのあと、これとまったく同じことが、数回繰り返された。吉田はきっと毎晩、この調子で飲んでいるのだろう、と私は思っていた。ところが、本当はそうではなかったのだ。吉田が親切にも、彼の家に転がり込んで来なさいと言ってくれたのに、私がそれを断ったのも、毎晩あれに付き合わされたらかなわない、と思ったからであった。何年もあとになって、彼が飲むのは、週に一、二回くらいだということを、誰かに聞いた。・・・・」