漱石の「吾輩は猫である」を読みなおそうと思ったわけです。
どうせなら、岩波書店から出ている最新版の漱石全集で読んでみよう。
と次に思ったわけです。さいわい、古本でその巻だけ買えました。
そして、第一章だけ、とりあえず読んでみた。というわけです。
なにやら、漢字と平仮名の配分が読みやすい。
というようなことを思ったのでした。
そういえば、これは高浜虚子が漱石に朗読した。
というのを、どこかで読んだことがありました。
どこだっけ。と見回したら、ありました。
高浜虚子著「回想 子規・漱石」(岩波文庫)に。
さっそく、そこから引用してみましょう。
それは、結構面白い箇所なのでした。
まずは、「吾輩・・」を書く前の様子が書かれているので、そこから。
虚子が漱石の奥さんから、頼まれる。
何でも、奥さんの言うには、漱石がこの頃機嫌が悪い。
それで「あなたも間(ひま)な時にはチトどこかに引張り出してくれませんか。」
頼まれる。その約束があるので虚子はいろいろと連れまわす。
まずは壮士芝居。
「氏は極めて不愉快そうな顔をしてこの芝居を見ていたが、我慢し切れなくなって様々の冷評を試みはじめた。しまいには、『君はいつもこんなものを見て面白がっているのですか。』などといって私を攻撃しはじめた。そうして中途で帰ってしまった。」
それでも、虚子は奥さんとの約束があるので、「それからも歌舞伎芝居に一度と能に二、三度引っ張り出した」のでした。
「中でも最も氏をよろこばせたのは能楽であった。
『能は退屈だけれども面白いものだ。』といって氏は能を見ることは決して拒まなかった。かくして私は比較的多く能を見に誘い出した。・・・」
このあとに、連句俳体詩の話がつづき、いよいよ「吾輩は猫である」の誕生する場面となります。これを読むと、虚子はいわば「吾輩は猫である」を取り上げた助産婦役のように思えてきます。では肝心なその箇所を引用。
「この頃われら仲間の文章熱は非常に盛んであった。殆ど毎月のように集会して文章会を開いていた。それは子規居子生前からあった会で、『文章には山がなくては駄目だ。』という子規居子の主張に基いて、われらはその文章会を山会と呼んでいた。」
「・・・私はある時文章も作ってはどうかということを勧めてみた。遂に来る12月の何日に根岸の子規旧廬で山会をやることになっているのだから、それまでに何か書いてみてはどうか、その行きがけにあなたの宅へ立寄るからということを約束した。当日、出来て居るかどうかあやぶみながら私は出掛けて見た。漱石氏は愉快そうな顔をして私を迎えて、一つ出来たからすぐここで読んで見てくれとのことであった。見ると数十枚の原稿紙に書かれた相当に長い物であったので私はまずその分量に驚かされた。それから氏の要求するままに私はそれを朗読した。氏はそれを傍(かたわ)らで聞きながら自分の作物に深い興味を見出すものの如くしばしば噴き出して笑ったりなどした。・・とにかく面白かったので大に推賞した。気のついた欠点は言ってくれろとのことであったので、私はところどころ贅文句と思わるるものを指摘した。氏は大分不平らしかったけれども・・・大概私の指摘したところは抹殺したり、書き改めたりした。中には原稿用紙二枚ほどの分量を除いたところもあった。それは後といわず直ぐその場で直おしたので大分時間がとれた。私がその原稿を携えて山会に出たのは大分定刻を過ぎていた。・・・文章会員一同に、『とにかく変っている。』という点に於て讃辞を呈せしめた。・・・・漱石氏の機嫌が悪かったということは学校に対する不平が主なものであったろう。そういう場合に、連句俳体詩などがその創作熱をあおる口火となって、終に漱石の文学を生むようになったということは不思議な因縁といわねばならぬ。『猫』を書きはじめて後の漱石氏の書斎にはにわかに明るい光がさし込んで来たような感じがした。漱石氏はいつも愉快な顔をして私を迎えた。・・・」(p158~p164)
ところで、こんな引用をしていると、
「吾輩は猫である」を読みに戻るきっかけを、つかめなくなったりします(笑)。
どうせなら、岩波書店から出ている最新版の漱石全集で読んでみよう。
と次に思ったわけです。さいわい、古本でその巻だけ買えました。
そして、第一章だけ、とりあえず読んでみた。というわけです。
なにやら、漢字と平仮名の配分が読みやすい。
というようなことを思ったのでした。
そういえば、これは高浜虚子が漱石に朗読した。
というのを、どこかで読んだことがありました。
どこだっけ。と見回したら、ありました。
高浜虚子著「回想 子規・漱石」(岩波文庫)に。
さっそく、そこから引用してみましょう。
それは、結構面白い箇所なのでした。
まずは、「吾輩・・」を書く前の様子が書かれているので、そこから。
虚子が漱石の奥さんから、頼まれる。
何でも、奥さんの言うには、漱石がこの頃機嫌が悪い。
それで「あなたも間(ひま)な時にはチトどこかに引張り出してくれませんか。」
頼まれる。その約束があるので虚子はいろいろと連れまわす。
まずは壮士芝居。
「氏は極めて不愉快そうな顔をしてこの芝居を見ていたが、我慢し切れなくなって様々の冷評を試みはじめた。しまいには、『君はいつもこんなものを見て面白がっているのですか。』などといって私を攻撃しはじめた。そうして中途で帰ってしまった。」
それでも、虚子は奥さんとの約束があるので、「それからも歌舞伎芝居に一度と能に二、三度引っ張り出した」のでした。
「中でも最も氏をよろこばせたのは能楽であった。
『能は退屈だけれども面白いものだ。』といって氏は能を見ることは決して拒まなかった。かくして私は比較的多く能を見に誘い出した。・・・」
このあとに、連句俳体詩の話がつづき、いよいよ「吾輩は猫である」の誕生する場面となります。これを読むと、虚子はいわば「吾輩は猫である」を取り上げた助産婦役のように思えてきます。では肝心なその箇所を引用。
「この頃われら仲間の文章熱は非常に盛んであった。殆ど毎月のように集会して文章会を開いていた。それは子規居子生前からあった会で、『文章には山がなくては駄目だ。』という子規居子の主張に基いて、われらはその文章会を山会と呼んでいた。」
「・・・私はある時文章も作ってはどうかということを勧めてみた。遂に来る12月の何日に根岸の子規旧廬で山会をやることになっているのだから、それまでに何か書いてみてはどうか、その行きがけにあなたの宅へ立寄るからということを約束した。当日、出来て居るかどうかあやぶみながら私は出掛けて見た。漱石氏は愉快そうな顔をして私を迎えて、一つ出来たからすぐここで読んで見てくれとのことであった。見ると数十枚の原稿紙に書かれた相当に長い物であったので私はまずその分量に驚かされた。それから氏の要求するままに私はそれを朗読した。氏はそれを傍(かたわ)らで聞きながら自分の作物に深い興味を見出すものの如くしばしば噴き出して笑ったりなどした。・・とにかく面白かったので大に推賞した。気のついた欠点は言ってくれろとのことであったので、私はところどころ贅文句と思わるるものを指摘した。氏は大分不平らしかったけれども・・・大概私の指摘したところは抹殺したり、書き改めたりした。中には原稿用紙二枚ほどの分量を除いたところもあった。それは後といわず直ぐその場で直おしたので大分時間がとれた。私がその原稿を携えて山会に出たのは大分定刻を過ぎていた。・・・文章会員一同に、『とにかく変っている。』という点に於て讃辞を呈せしめた。・・・・漱石氏の機嫌が悪かったということは学校に対する不平が主なものであったろう。そういう場合に、連句俳体詩などがその創作熱をあおる口火となって、終に漱石の文学を生むようになったということは不思議な因縁といわねばならぬ。『猫』を書きはじめて後の漱石氏の書斎にはにわかに明るい光がさし込んで来たような感じがした。漱石氏はいつも愉快な顔をして私を迎えた。・・・」(p158~p164)
ところで、こんな引用をしていると、
「吾輩は猫である」を読みに戻るきっかけを、つかめなくなったりします(笑)。