フジテレビのニュースの司会をしている(今はちがうかな)
黒岩祐治氏が書いた本に「恩師の条件」(リヨン社・2005年)というのがあります。
この本の恩師とは、灘高校の名物教師・橋本武。
本文のはじまりにこうあります。
「私には胸を張って自分の『恩師』と言える先生がいる。中学・高校の六年間にわたって国語を教えていただいた橋本武先生である。」(p11)
その授業内容を紹介している本なのでした。
いろいろあるのですが、たとえばこんな箇所はどうでしょう。
「橋本先生の国語の授業でもうひとつ印象深く残っているのは、とにかくたくさんの文章を書かされたということである。」とあり、先生本人の文が引用されております。
「【百聞は一見に如かず】という。書くことにおいては【百論は一作に如かず】で、文章作法をいくら説いてみても、文章は書けもしないし上手にもならない。書いて書いて書きまくって、書くことの拒絶反応を払拭した上で、はじめて文章作法が自然に身についていく。運動選手が絶えずトレーニングに励み、技能にたずさわるものが、たゆみなくケイコにうちこみワザを磨く。書くことも技術であり習慣である。以上、実践を措いて上達の道はあり得ない。」(p143)
こんな箇所も引用しておきましょう。
「授業で今も忘れられないもののひとつに詩歌の暗誦があった。北原白秋や国木田独歩、室生犀星らの詩歌を暗誦し、みんなの前で披露するというものである。日本語の美しさは音読してこそ味わいのあるものであって、理屈の前にといかく頭から覚え込めというのが先生の流儀だった。百人一首もそうだったが、諳(そらん)じることの重要性をいつも強調していた。『ごちゃごちゃ言わずにとにかく覚え込め』としていた作品と、『徹底的に論理的に考えろ』という作品を先生はしっかりと区別していた。・・・」(p152~153)
ところで、原田種成著「漢文のすすめ」(新潮選書)の「第二章・諸橋『大漢和辞典』編纂秘話」に、その橋本武氏が、ちょい役で登場しておりました。
その箇所を引用
「私たちが近くに住むので諸橋先生から橋本武もいっしょに、と頼まれた。橋本は高等師範の学生で、卒業後、神戸の灘中学に勤めた。灘中は戦後は、大学受験で高名な灘高校となり、橋本は国語の受験指導で定評があり、七十歳で定年になるまで勤め、遠藤周作氏は橋本の教え子だった。昭和51年7月末に橋本が前橋の予備校の夏期講習の講師で来た。久闊を叙し、懐旧談の中で、あの家は諸橋先生が借りて私達を住まわせてくれていたものと思い込んでいたのには驚いた。いや、あれは私達が家賃を払って借りた家だよ、というと逆にビックリしていた。私は伯母に頼んで家事一切をやって貰った。伯母は安くて栄養のあるものと考え、『ねぎま』と『おでん』をよく作ってくれた。『ねぎま』は、葱と鮪のトロの汁で、そのころ、トロは今日のように上等な食べ物ではなく、魚屋の店先の一番前に皿に山盛りにして安く売っていた。・・」
黒岩祐治氏が書いた本に「恩師の条件」(リヨン社・2005年)というのがあります。
この本の恩師とは、灘高校の名物教師・橋本武。
本文のはじまりにこうあります。
「私には胸を張って自分の『恩師』と言える先生がいる。中学・高校の六年間にわたって国語を教えていただいた橋本武先生である。」(p11)
その授業内容を紹介している本なのでした。
いろいろあるのですが、たとえばこんな箇所はどうでしょう。
「橋本先生の国語の授業でもうひとつ印象深く残っているのは、とにかくたくさんの文章を書かされたということである。」とあり、先生本人の文が引用されております。
「【百聞は一見に如かず】という。書くことにおいては【百論は一作に如かず】で、文章作法をいくら説いてみても、文章は書けもしないし上手にもならない。書いて書いて書きまくって、書くことの拒絶反応を払拭した上で、はじめて文章作法が自然に身についていく。運動選手が絶えずトレーニングに励み、技能にたずさわるものが、たゆみなくケイコにうちこみワザを磨く。書くことも技術であり習慣である。以上、実践を措いて上達の道はあり得ない。」(p143)
こんな箇所も引用しておきましょう。
「授業で今も忘れられないもののひとつに詩歌の暗誦があった。北原白秋や国木田独歩、室生犀星らの詩歌を暗誦し、みんなの前で披露するというものである。日本語の美しさは音読してこそ味わいのあるものであって、理屈の前にといかく頭から覚え込めというのが先生の流儀だった。百人一首もそうだったが、諳(そらん)じることの重要性をいつも強調していた。『ごちゃごちゃ言わずにとにかく覚え込め』としていた作品と、『徹底的に論理的に考えろ』という作品を先生はしっかりと区別していた。・・・」(p152~153)
ところで、原田種成著「漢文のすすめ」(新潮選書)の「第二章・諸橋『大漢和辞典』編纂秘話」に、その橋本武氏が、ちょい役で登場しておりました。
その箇所を引用
「私たちが近くに住むので諸橋先生から橋本武もいっしょに、と頼まれた。橋本は高等師範の学生で、卒業後、神戸の灘中学に勤めた。灘中は戦後は、大学受験で高名な灘高校となり、橋本は国語の受験指導で定評があり、七十歳で定年になるまで勤め、遠藤周作氏は橋本の教え子だった。昭和51年7月末に橋本が前橋の予備校の夏期講習の講師で来た。久闊を叙し、懐旧談の中で、あの家は諸橋先生が借りて私達を住まわせてくれていたものと思い込んでいたのには驚いた。いや、あれは私達が家賃を払って借りた家だよ、というと逆にビックリしていた。私は伯母に頼んで家事一切をやって貰った。伯母は安くて栄養のあるものと考え、『ねぎま』と『おでん』をよく作ってくれた。『ねぎま』は、葱と鮪のトロの汁で、そのころ、トロは今日のように上等な食べ物ではなく、魚屋の店先の一番前に皿に山盛りにして安く売っていた。・・」