昨日のブログで、夏目漱石の「愚見数則」を少し引用しました。
この文は、
講談社文芸文庫「漱石人生論」では、7ページ。
単行本「学生諸君!」(光文社)で、7ページ。
漢文調の戒律めいた「勿れ」が、文中の所々に挟まれてリズミカルでもあります。
ということで、引用して、あとで思ったことを書きます。
鶴見俊輔著「悼詞」(SURE)。
鶴見和子著「女学生」(はる書房)。
この二冊。姉弟の二人の本なのでした。
「悼詞」には、姉・鶴見和子への追悼文が載っており。
「女学生」には、弟・俊輔を語った文が載っております。
ここでは、「勿れ」ということで「女学生」に載った文をもってきます。
そこからの、引用。姉が弟を語っている中に留学の際の様子がでてきます。
その前から
「母はサムライ気質で、長男は立派に育てあげなければ、『ご先祖さまに申訳がない』という強烈な責任感を持っていた。立派に、というのは、決して、立身出世を願ったのではない。『正しい人になる』ということであった。ひとのお世話になったり、ひとに迷惑をかけたりせず、自分で自分の始末のできる人になるように、という、まことにつつましい、しかし最もきびしい価値基準をもって、弟の日常茶飯の小さな行いにいたるまで苛酷に糾弾した。・・・・わたしが、弟と喧嘩するゆとりが全くないほどに、母は弟を攻めたてた。・・・・1942年12月7日、日米開戦の日、俊輔はハーヴァード大学に学び、わたしはコロンビア大学で勉強していた。ボストンでFBIに拘束され、訊問に答えて、クロポトキンの倫理哲学を滔々としゃべったために『アナキスト』というレッテルをはられて、留置場に入れられた。ニューヨークのわたしは、一週間の外出禁止があっただけで、FBIの訪問はうけなかった。そこで、わたしは、俊輔の荷物を整理するために、かれの下宿にいって驚いた。屋根裏部屋の一室には、天井と壁一面に、張紙がしてあった。はっきり覚えていないのだが、すべて、自己に対する戒律のことばが書かれていたのである。その時すでに病気になっていたらしく、毎日、大瓶の牛乳をのんで、必死の勉強をしていたことがわかる。張紙の戒律は、母の訓戒の内面化であったかもしれない。」
夏目漱石の「愚見数則」の中の「勿れ」から、
鶴見俊輔の「張紙の戒律」を思い浮かべたのでした。
それにしても、「天井と壁一面」の張紙には、どのような言葉が書かれていたのでしょう。
この文は、
講談社文芸文庫「漱石人生論」では、7ページ。
単行本「学生諸君!」(光文社)で、7ページ。
漢文調の戒律めいた「勿れ」が、文中の所々に挟まれてリズミカルでもあります。
ということで、引用して、あとで思ったことを書きます。
鶴見俊輔著「悼詞」(SURE)。
鶴見和子著「女学生」(はる書房)。
この二冊。姉弟の二人の本なのでした。
「悼詞」には、姉・鶴見和子への追悼文が載っており。
「女学生」には、弟・俊輔を語った文が載っております。
ここでは、「勿れ」ということで「女学生」に載った文をもってきます。
そこからの、引用。姉が弟を語っている中に留学の際の様子がでてきます。
その前から
「母はサムライ気質で、長男は立派に育てあげなければ、『ご先祖さまに申訳がない』という強烈な責任感を持っていた。立派に、というのは、決して、立身出世を願ったのではない。『正しい人になる』ということであった。ひとのお世話になったり、ひとに迷惑をかけたりせず、自分で自分の始末のできる人になるように、という、まことにつつましい、しかし最もきびしい価値基準をもって、弟の日常茶飯の小さな行いにいたるまで苛酷に糾弾した。・・・・わたしが、弟と喧嘩するゆとりが全くないほどに、母は弟を攻めたてた。・・・・1942年12月7日、日米開戦の日、俊輔はハーヴァード大学に学び、わたしはコロンビア大学で勉強していた。ボストンでFBIに拘束され、訊問に答えて、クロポトキンの倫理哲学を滔々としゃべったために『アナキスト』というレッテルをはられて、留置場に入れられた。ニューヨークのわたしは、一週間の外出禁止があっただけで、FBIの訪問はうけなかった。そこで、わたしは、俊輔の荷物を整理するために、かれの下宿にいって驚いた。屋根裏部屋の一室には、天井と壁一面に、張紙がしてあった。はっきり覚えていないのだが、すべて、自己に対する戒律のことばが書かれていたのである。その時すでに病気になっていたらしく、毎日、大瓶の牛乳をのんで、必死の勉強をしていたことがわかる。張紙の戒律は、母の訓戒の内面化であったかもしれない。」
夏目漱石の「愚見数則」の中の「勿れ」から、
鶴見俊輔の「張紙の戒律」を思い浮かべたのでした。
それにしても、「天井と壁一面」の張紙には、どのような言葉が書かれていたのでしょう。