関東大震災は大正12年(1923年)でした。
ということで、平成15年(2003年)が、震災80年。
その翌年の平成16年10月には、新潟中越地震が発生しておりました。
武村雅之著「手記で読む関東大震災」(古今書院)は、地震という体験をつたえる具体的な工夫に富んだ一冊です。そこに地震のあらましを、まず第一章で、こう書きはじめておりました。
「大正12年9月1日、関東地震が発生した。今日までの研究によれば、震源位置は、小田原市の北約10キロの松田付近の直下にあり、そこから午前11時58分32秒に震源の断層すべりが始まった。すべりは相模湾から千葉県の房総半島南部にかけて長さ約130キロ、幅約70キロにも及ぶ区域で、四、五十秒間をかけて、進行したものと推定される。地震の規模を示すマグニチュードはM7・9(8・1±0・2という評価もある)といわれている。・・・」
ところで、今は2009年ですから、関東大震災当時、4~5歳以上の方は、もう90歳を超えておられる(0~3歳ぐらいで震災を経験されていても、記憶としては曖昧でしょう)。ほとんどが、直接関東大震災の経験を聞けない時代に入っております。
房総についても、もっぱら本によって、関東大震災の頃を振り返ってみたいと思ったわけです。
さて、どこからはじめましょう。
高校の百年史というのが二冊手元にあります。
安房高等学校と安房南高等学校の二冊。
安房高のは、平成14年発行。安房南は平成20年発行。
ちなみに安房南百年史は古い校友会雑誌に載った記事の採録があり、
意外にも、震災の文が多く読めるのでした。
まずは南高の文を引用。
「関東大震災によって県立安房高等女学校の校舎はほとんど倒壊した。残存建物は雨天体操場と便所二棟等であった。寄宿舎の二名は圧死、自宅で生徒六名が死亡した。・・
関東大震災によって本校(長須賀校舎)が壊滅状態になった史実について、渦中の豊沢藤一郎校長は『校友会雑誌』第六号震災記念号(大正14年4月)に『八百坪の校舎中僅かにトタン屋根の生徒扣(ひかへ)所及便所位が残ったのみで、他の全部が一瞬の間に粉砕されて見るも痛ましい残骸となって吾等の眼前に横たはった。幸いにも火災は起こらなかったが、逃げ後れた二人の舎生は大自然の憤怒の犠牲となって悲惨の最期を遂げた。・・・』
9月20日(木)は晴後雨で、震災後初めて職員が全校生徒と校庭で顔を合わせた。同誌には被災後の状況について『校長先生の訓話は始められた。そして四年級は28日に、其の他は10月1日にまた出校する事を告げ知らして解散した。訓話は無論校庭で行はれたのである。(中略)尚家庭にて地震の為死亡した生徒は次の六名である事が確実となった。悼しい事である。』・・・」(p20)
いっぽうの安房高百年史。
こちらは個人の文章を引用。明治41年(1908年)生まれの和田金治氏が文を書かれており、そのはじまりが震災からでした。
「私が安房中学(当時の)に入学したのは、大正11年であった。翌12年の9月1日が関東大震災であった。木造の校舎は、講堂などまで全倒壊。だが幸いにも9月1日は2学期の始業式だけだったので、生徒は全員帰った後であったから、生徒には一人の犠牲者も出なかった。・・その後、しばらくの間休校し、やがてテント張りの教室が出来て授業が再会し、木造の校舎が出来上がるまでには、相当の期間を要したように思う。
その前後に北条海岸に出て見て驚いた。昔の安房中学では、たしか5月だったと思うが、創立記念日の行事として、海での学年毎のクラス対抗の7人乗りのボートレースが行われたが、そのボートを保管しておく艇庫(ボートをしまっておく倉庫)があった。それが何と、はるか丘の上の方に飛び上がっているように見えるではないか。もちろん艇庫自体が飛び上がる筈はない。館山は房総半島の先端だが、半島の沖合の海底の断層が大地震で陥没した、その反動によって隆起したわけである。館山湾の遥かかなたの沖合にあり、我々は水泳の三級(白帽)をもらうべく、頑張って沖の島往復をやったが、その時代の鷹島は四囲深い海であったのが、殆ど歩いて渡れる陸続きと化してしまったのも半島隆起のためである。
もちろん北条の市街は殆ど全滅の状態で、僅かに煉瓦造りの建物(銀行・官庁の)が残っただけであり、死傷者が出たことは言うまでもない。
遥か北の方、東京方面を望むと、黒煙は天日暗しと言わんか、東京が一面の火事に包まれているなと直感できるほどの凄まじさであったことを80年前の記憶として改めて想起する。」
ところで、武村雅之著「地震と防災」(中公新書)が昨年でたばかりでした。
そのおわりの方に、房総半島の隆起のことが書かれておりました。
興味深い記述なので、引用しておきます。
「房総半島南部や三浦半島の海岸線沿いの平地のほとんどは、相模湾で巨大地震が幾度となく起こり、そのたびに海底が隆起して造られてきたものである。関東地震や元禄地震は、そのなかの最新の二回である。
東京駅から内房線の特急さざなみ号に乗って約2時間、千葉県南房総市千倉町に着く。まず海岸線沿いに南へしばらく行くと、平磯(ひらいそ)の海岸に出る。海岸沿いの新道から海をみると、今しがた海から現れたような白いごつごつした岩の海岸がみえる。これが関東地震で海から顔を出した部分である。その道から内陸部に入ると広い平らな土地があり、一面お花畑になっている。その土地が、元禄16(1703)年、今から約300年前に元禄地震で海から顔を出したところである。さらに内陸へ階段状の土地を登るとまた広い平らな土地がある。そこは今から約3000年前の地震で海から顔を出したところである。つまり元禄地震以前は海岸のすぐそばだった土地である。その証拠に今でも旧道が走りその周りに集落がある。この旧道が国道410号線である。さらにその上にも約5000年前の地震で海から顔を出したと推定されている平らな土地がある。そこに『鯨塚』で有名な長性寺が建っている。その向うは山地でほとんど人は住んでいない。
房総半島南部は空からみると、どこでも同じように海から段々畑のように平らな土地が続いている。・・・」(p218~219)
ということで、平成15年(2003年)が、震災80年。
その翌年の平成16年10月には、新潟中越地震が発生しておりました。
武村雅之著「手記で読む関東大震災」(古今書院)は、地震という体験をつたえる具体的な工夫に富んだ一冊です。そこに地震のあらましを、まず第一章で、こう書きはじめておりました。
「大正12年9月1日、関東地震が発生した。今日までの研究によれば、震源位置は、小田原市の北約10キロの松田付近の直下にあり、そこから午前11時58分32秒に震源の断層すべりが始まった。すべりは相模湾から千葉県の房総半島南部にかけて長さ約130キロ、幅約70キロにも及ぶ区域で、四、五十秒間をかけて、進行したものと推定される。地震の規模を示すマグニチュードはM7・9(8・1±0・2という評価もある)といわれている。・・・」
ところで、今は2009年ですから、関東大震災当時、4~5歳以上の方は、もう90歳を超えておられる(0~3歳ぐらいで震災を経験されていても、記憶としては曖昧でしょう)。ほとんどが、直接関東大震災の経験を聞けない時代に入っております。
房総についても、もっぱら本によって、関東大震災の頃を振り返ってみたいと思ったわけです。
さて、どこからはじめましょう。
高校の百年史というのが二冊手元にあります。
安房高等学校と安房南高等学校の二冊。
安房高のは、平成14年発行。安房南は平成20年発行。
ちなみに安房南百年史は古い校友会雑誌に載った記事の採録があり、
意外にも、震災の文が多く読めるのでした。
まずは南高の文を引用。
「関東大震災によって県立安房高等女学校の校舎はほとんど倒壊した。残存建物は雨天体操場と便所二棟等であった。寄宿舎の二名は圧死、自宅で生徒六名が死亡した。・・
関東大震災によって本校(長須賀校舎)が壊滅状態になった史実について、渦中の豊沢藤一郎校長は『校友会雑誌』第六号震災記念号(大正14年4月)に『八百坪の校舎中僅かにトタン屋根の生徒扣(ひかへ)所及便所位が残ったのみで、他の全部が一瞬の間に粉砕されて見るも痛ましい残骸となって吾等の眼前に横たはった。幸いにも火災は起こらなかったが、逃げ後れた二人の舎生は大自然の憤怒の犠牲となって悲惨の最期を遂げた。・・・』
9月20日(木)は晴後雨で、震災後初めて職員が全校生徒と校庭で顔を合わせた。同誌には被災後の状況について『校長先生の訓話は始められた。そして四年級は28日に、其の他は10月1日にまた出校する事を告げ知らして解散した。訓話は無論校庭で行はれたのである。(中略)尚家庭にて地震の為死亡した生徒は次の六名である事が確実となった。悼しい事である。』・・・」(p20)
いっぽうの安房高百年史。
こちらは個人の文章を引用。明治41年(1908年)生まれの和田金治氏が文を書かれており、そのはじまりが震災からでした。
「私が安房中学(当時の)に入学したのは、大正11年であった。翌12年の9月1日が関東大震災であった。木造の校舎は、講堂などまで全倒壊。だが幸いにも9月1日は2学期の始業式だけだったので、生徒は全員帰った後であったから、生徒には一人の犠牲者も出なかった。・・その後、しばらくの間休校し、やがてテント張りの教室が出来て授業が再会し、木造の校舎が出来上がるまでには、相当の期間を要したように思う。
その前後に北条海岸に出て見て驚いた。昔の安房中学では、たしか5月だったと思うが、創立記念日の行事として、海での学年毎のクラス対抗の7人乗りのボートレースが行われたが、そのボートを保管しておく艇庫(ボートをしまっておく倉庫)があった。それが何と、はるか丘の上の方に飛び上がっているように見えるではないか。もちろん艇庫自体が飛び上がる筈はない。館山は房総半島の先端だが、半島の沖合の海底の断層が大地震で陥没した、その反動によって隆起したわけである。館山湾の遥かかなたの沖合にあり、我々は水泳の三級(白帽)をもらうべく、頑張って沖の島往復をやったが、その時代の鷹島は四囲深い海であったのが、殆ど歩いて渡れる陸続きと化してしまったのも半島隆起のためである。
もちろん北条の市街は殆ど全滅の状態で、僅かに煉瓦造りの建物(銀行・官庁の)が残っただけであり、死傷者が出たことは言うまでもない。
遥か北の方、東京方面を望むと、黒煙は天日暗しと言わんか、東京が一面の火事に包まれているなと直感できるほどの凄まじさであったことを80年前の記憶として改めて想起する。」
ところで、武村雅之著「地震と防災」(中公新書)が昨年でたばかりでした。
そのおわりの方に、房総半島の隆起のことが書かれておりました。
興味深い記述なので、引用しておきます。
「房総半島南部や三浦半島の海岸線沿いの平地のほとんどは、相模湾で巨大地震が幾度となく起こり、そのたびに海底が隆起して造られてきたものである。関東地震や元禄地震は、そのなかの最新の二回である。
東京駅から内房線の特急さざなみ号に乗って約2時間、千葉県南房総市千倉町に着く。まず海岸線沿いに南へしばらく行くと、平磯(ひらいそ)の海岸に出る。海岸沿いの新道から海をみると、今しがた海から現れたような白いごつごつした岩の海岸がみえる。これが関東地震で海から顔を出した部分である。その道から内陸部に入ると広い平らな土地があり、一面お花畑になっている。その土地が、元禄16(1703)年、今から約300年前に元禄地震で海から顔を出したところである。さらに内陸へ階段状の土地を登るとまた広い平らな土地がある。そこは今から約3000年前の地震で海から顔を出したところである。つまり元禄地震以前は海岸のすぐそばだった土地である。その証拠に今でも旧道が走りその周りに集落がある。この旧道が国道410号線である。さらにその上にも約5000年前の地震で海から顔を出したと推定されている平らな土地がある。そこに『鯨塚』で有名な長性寺が建っている。その向うは山地でほとんど人は住んでいない。
房総半島南部は空からみると、どこでも同じように海から段々畑のように平らな土地が続いている。・・・」(p218~219)