和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

老子。

2009-01-07 | Weblog
谷沢永一・渡部昇一著「老子の読み方」(PHP)で紹介されていた本を注文。
残念ながら、永野芳夫著「老子道徳経の研究」は手に入りませんでした。
けれども、2冊ゲット。
永野芳夫著「老子の哲学」と、そして期待した加藤常賢著「老子原義の研究」。
あとは、まだ届かない林語堂著「支那のユーモア」(岩波新書)。
ということで、「老子の読み方」を読む準備は整いました。
今年は、これを読む。という楽しみ。

こうした碩学のお二人の対談を、安易に読み過ごすのは、宝の持ち腐れ。
ここは、ひとつゆっくりと構えて、ぼちぼちと読んでゆきます。
とりあえずは、パラパラと拾い読みした箇所を引用。

【谷沢】・・『老子』は合理的な一貫した理論ではなく、言いっ放しという性質がある。だから、おもしろいのです。理路整然としていたら、おそらく『老子』はそれほど尊重されないでしょう。ところが、完全に言いっ放しで、結論をつけようとしなところが魅力なのです。
【渡部】そうですね。要するにつぶやきみたいなところがあるし、・・・「訳のわからないものがある」ということを韻を踏みながら縷々(るる)いっていたりする。逆にいえば、こういう部分は韻を踏んで調子よくいくからおもしろいのであって、論理を積み重ねているわけではない。それだけに、まじめに考えても意味がないというところもあります。それでいて、うまい説明ができると得意にもなれる。そういうところがあるから『老子』はおもしろいのでしょう。(p235~236)


うん。ここは行き掛かり上、「老子」を引用しましょう。
その(通行本 第41章)の現代語訳(p57~58)

   上等の士は道を聞くと、勤めてそれを実行する。
   中等の士は道を聞いて、半信半疑でゐる。
   下等の士は道を聞いて、大いにこれをあざ笑ふ。
   いつたい下等の士から笑はれないやうな道は、
   道だとはいへない。
   だからこそ昔からいはれてをる。―――
   明るい道は暗いがごとくだ。
   道を進むは退くがごとくだ。
   ほんとうに平坦安全な道は外見でこぼこの
   あぶない道のごとくだ。
   上徳は谷のごとく(慮しくて低い)。
   大白は一見黒いごとくみえる。
   広徳はなほ不足のごとくみえる。
   盛んな徳は怠惰のごとくみえる。
   堅固な真理は変化するごとくみえる。
   無限大の四角には角がない。
   大器(大人物等)は晩成する。
   極大の音は耳にきこえない。
   極大の象(すがた:即ち道)は無形である。
   道は隠れてゐて名まへもない。
   いつたい道は、ただただよくその力を貸して
   萬物を生成化育するばかりだ。


これをお二人の碩学の解釈を読みながら、
私が思い浮かべていたのは、まど・みちおの詩でした。
ちょっと風変わりな詩で、印象に残っていたのが
まど・みちお の詩「もう すんだとすれば」。


   もうすんだとすれば これからなのだ
   あんらくなことが 苦しいのだ
   暗いからこそ 明るいのだ
   なんにも無いから すべてが有るのだ
   見ているのは 見ていないのだ
   分かっているのは 分かっていないのだ
   押されているので 押しているのだ
   落ちていきながら 昇っていくのだ
   遅れすぎて 進んでいるのだ
   一緒にいるときは ひとりぼっちなのだ
   やかましいから 静かなのだ
   黙っている方が しゃべっているのだ
   笑っているだけ 泣いているのだ
   ほめていたら けなしているのだ
   うそつきは まあ正直者だ
   おくびょう者ほど 勇ましいのだ
   利口(りそう)にかぎって バカなのだ
   生れてくることは 死んでいくことだ
   なんでもないことが 大変なことなのだ


こうして、引用していると、赤塚不二夫の「バカボンのパパ」のセリフ。
「なのだ」を思い浮かべたりもします。
赤塚不二夫と、「もう すんだとすれば」の、まど・みちお。
こうしてお二人に興味がおありでしたら、
あなたは、老子の世界に、もう片足をつっこんでいるのだ。
それでいいのだ。

コメント
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