和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

書簡「海の幸」。

2009-01-27 | 安房
青木繁の絵画「海の幸」は、房総の布良に滞在し、描いた作品として知られています。
明治37年(1904)のことでした。7月に西洋画科選科を卒業し、友人ら四人で、房州布良海岸へ出かけ二ヶ月ほど過ごします。そして、その年の9月、白馬会第九回展に「海の幸」を出品、話題をさらうのでした。

ところで、話はかわりますが、ネットで古本を簡単に注文できるのが、私などは、たいへんに有難く思っております。この青木繁についてでも、いながらにして数冊の読んでみたい本が送られてくるのでした。たとえば、

  青木繁著「假象の創造」中央公論美術出版
  松永伍一著「青木繁 その愛と放浪」NHKブックス
  雑誌「太陽 ’74・10月号」(画家青木繁)
  「画家の末裔」講談社文庫
  「木村伊兵衛写真集 昭和時代 第一巻」筑摩書房

というのが、容易に手元で見ることができました。
これは、地方にいるものにとって、有難いことなのでした。
ということで、ここでは青木繁著「假象の創造」をとりあげてみます。
門外漢は、こういう本があることすら知りませんでした。
この本の最後の解説を河北倫明氏が書いております。
そのはじまりを引用することで、様子がわかると思えます。

「この本は、明治時代の画家青木繁の文章、書簡を集めたもので、今日伝えられているもののほとんどすべてを網羅している。年譜からみてもわかるように、作者の生涯は何といっても短く、とくにその活動期間は十年に満たぬものであった上、生前認められたといっても、当時のジャーナリズムはとても今日ほどでなかったから、文章などを残す機会もすくなかった。・・・俳人河東碧梧桐が『彼は単に画に於ける天才であったのみならず、文章に於ても亦よく創造的気分を発揮した。彼は歌を作れば歌人となり、文章を書けば文人となり、楽器を手にすれば又たよく楽人となり得たであらう。彼は画家ではなかった、寧ろ詩人であった。』とのべた・・・」(p162)

さて、それでは明治37年8月22日に、房州富崎村字布良より青木繁が出した手紙を、ここに引用してみます。青木繁といえば美術の教科書ですでによく御存知の「海の幸」をすぐにでも思い浮かべるのでしょうが、河東碧梧桐のいうところの「彼は画家ではなかった、寧ろ詩人であった」という詩人を、この手紙から感じて頂きたい。と思ったわけです。


「其後ハ御無沙汰失礼候、モー此所に来て一ヶ月余になる、この残暑に健康はどうか?僕は海水浴で黒んぼーだよ、定めて君は知って居られるであろうがここは萬葉にある『女良』だ、すく近所に安房神社といふがある、官幣大社で、天豊美命をまつつたものだ、何しろ沖は黒潮の流を受けた激しい崎で上古に伝はらない人間の歴史の破片が埋められて居たに相違ない、漁場として有名な荒っぽい所だ、冬になると四十里も五十里も黒潮の流れを切って二月も沖に暮らして漁するそうだよ、西の方の浜伝ひの隣りに相の浜という所がある、詩的な名でないか、其次ハ平沙浦(ヘイザウラ)其次ハ伊藤のハナ、其次ハ洲の崎でここは相州の三浦半島と遙かに対して東京湾の口を扼して居るのだ、」

この手紙には絵も描かれていて、それを示しながら手紙は続きます。

「上図はアイドという所で直ぐ近所だ、好い所で僕等の海水浴場だよ、
上図が平沙浦、先に見ゆるのが洲の崎だ、富士も見ゆる、
雲ポッツリ、
又ポッツリ、ポッツリ!
波ピッチャリ、
又ピッチャリ、ピッチャリ!
砂ヂリヂリとやけて
風ムシムシとあつく
なぎたる空!
はやりたる潮!
童謡
『ひまにや来て見よ、
 平沙の浦わァー、
 西は洲の崎、
 東は布良アよ、
 沖を流るる
 黒瀬川ァー
 サアサ、
 ドンブラコッコ、
 スッコッコ、
       !!!』

これが波のどかな平沙浦だよ、浜地には瓜、西瓜杯がよく出来るよ、
蛤も水の中から採れるよ、
晴れると大島利島シキネ島等が列をそれえて沖を十里にかすんで見える、
其波間を漁船が見えかくれする、面白いこと、
夫れから東が根本、白浜、野島だ、
僅かに三里の間だ、野島崎には燈台がある、
沖では
クヂラ、
ヒラウヲ、
カジキ「ハイホのこと」
マグロ、フカ、
キワダ、サメ、
がとれる、皆二十貫から百貫目位のもので釣るのだ、
恐しい様な荒っぽい事だ、

 ・・・・・・・
 ・・・・・・・
 ・・・・・・・


・・・今は少々製作中だ、大きい、モデルを沢山つかって居る、いづれ東京に帰へつてから御覧に入れる迄は黙して居よう。               」

解説の河北氏が、この書簡についても、書かれておりました。
そこも引用しておきましょう。

「青木といえばすぐ紹介される名高い書簡で、房州布良における意気軒昂たる彼の生活ぶりが弾むように表われている。この年の七月四日に美術学校を卒業した青木は、同月中旬になると、・・・四人で長期の写生旅行に出た。この夏の布良滞在が青木の生涯の頂点といってもよく、・・・・文中『今は少々製作中だ。大きい。モデルを沢山つかって居る。』とあるのが『海の幸』である。彼の高潮時代の雰囲気をつたえている点で、もっとも貴重な書簡だろう。」(p171)

青木繁の絵の実物を見たこともないのですが、
とりあえずは、ここで青木繁を読むのでした。

ちなみに、青木繁は明治15年(1882)久留米市に生まれる。
そして、明治44年(1911)3月25日病院で逝去。数えで30歳でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする