西條八十の童謡に「かなりや」があります。
唄を忘れたカナリヤは
うしろの山に棄てましよか
いえ、いえ、それはなりませぬ。
唄を忘れたカナリヤは
背戸の小藪に埋めましよか
いえ、いえ、それもなりませぬ。
唄を忘れたカナリヤは
柳の鞭でぶちましょか。
いえ、いえ、それはかはいそう。
唄を忘れたカナリヤは
象牙の船に、銀の櫂(かい)、
月夜の海に浮べれば
忘れた歌を想ひだす。
この詩をつくった同じ頃に「たそがれ」という詩もありました。
唄を忘れた
カナリヤは、
赤い緒紐でくるくると、
いましめられて
砂のうへ。
かはいそうにと
妹が、
なみだぐみつつ
解いてやる、
夕顔いろの
指さきに、
短い海の
日がくれる。
「かなりや」「たそがれ」のどちらもが
鈴木三重吉の創った雑誌『赤い鳥』に掲載されております。
その「たそがれ」が載った雑誌の「通信」欄には、
「本号に掲載した西條八十先生の童謡『たそがれ』は、先生が昨年、房州海岸に御滞在中の作で、嘗ての『かなりや』と同時に御寄稿下すつたものです。このことを念のために記して置きます。」
以下は、藤田圭雄著「日本童謡史Ⅰ」(あかね書房)を下敷きにして、筒井清忠が「西條八十」(中公叢書・中公文庫)に書いている箇所を引用してみます。
「藤田(圭雄)は、『八十は学生時代から房州海岸が好きでよく遊びに行ったようだ』という。藤田の伯父正木直彦・・その日記『十三松堂日記』の明治44年8月11日の条に、西條八十らと『一行20人にて』『大行寺』から『羅漢寺鋸山』に登山したという記述があるのを藤田は見つけている。大行寺というのは内房線保田駅の前にある日蓮宗の寺で、幼少の藤田も大正初年には正木らとこの保田で夏を過ごしたので『大学生の西條さん』がいた記憶があるという。まだ内房線もなかった時代で、霊岸島から観音埼を廻って保田海岸に着くのだが、『当時の保田は、他には都会の人などほとんどいず、浜には砂丘がつづき、芒が美しかった。』
藤田は、八十が大正8年に刊行する『砂金』に収められた『海にて』『砂山の幻』『芒の唄』のほか、『かなりや』『たそがれ』にも『あの、広く、豊かな、当時の保田海岸』を『感じる』という。『東京湾から解き放たれた太平洋の波は真青だった。夜は観音埼の燈台がまたたき、空には星が一杯に輝いた。』藤田はこのことを(西條)八十に手紙で知らせた。すると『死の直前、昭和45年7月10日』付の手紙が八十から来た。そこには次のようにあった。『・・・・私の父は・・非常な倹約者で、少年時代海も山も知りませんでした、14歳で父に死なれその翌年か翌々年あたり私は旅行というものを初めてし、保田へ行ったのです。・・それから夏になるときまって保田へ行きました。・・・結婚してからは近くの漁師の家に泊りました。だから大兄の仰有るようにわたしの海の作品は房州海岸が基調になってゐます。・・・』」
まあ、「一つの詩の発生の源が一つの場所や体験に特定できるというのものでもないことはいうまでもなかろう。従ってこの点に関しては、上野不忍池で『かなりや』の唄の想が湧いた時に、『月夜の海』のイメージとしては『夏になるときまって』行った房州海岸や伊豆半島の片瀬があったということではないだろうか。」という的確慎重な指摘もしておられるのですが、房総に住む私としては、これはあらためて、記しておかなければならない記述でした(笑)。
唄を忘れたカナリヤは
うしろの山に棄てましよか
いえ、いえ、それはなりませぬ。
唄を忘れたカナリヤは
背戸の小藪に埋めましよか
いえ、いえ、それもなりませぬ。
唄を忘れたカナリヤは
柳の鞭でぶちましょか。
いえ、いえ、それはかはいそう。
唄を忘れたカナリヤは
象牙の船に、銀の櫂(かい)、
月夜の海に浮べれば
忘れた歌を想ひだす。
この詩をつくった同じ頃に「たそがれ」という詩もありました。
唄を忘れた
カナリヤは、
赤い緒紐でくるくると、
いましめられて
砂のうへ。
かはいそうにと
妹が、
なみだぐみつつ
解いてやる、
夕顔いろの
指さきに、
短い海の
日がくれる。
「かなりや」「たそがれ」のどちらもが
鈴木三重吉の創った雑誌『赤い鳥』に掲載されております。
その「たそがれ」が載った雑誌の「通信」欄には、
「本号に掲載した西條八十先生の童謡『たそがれ』は、先生が昨年、房州海岸に御滞在中の作で、嘗ての『かなりや』と同時に御寄稿下すつたものです。このことを念のために記して置きます。」
以下は、藤田圭雄著「日本童謡史Ⅰ」(あかね書房)を下敷きにして、筒井清忠が「西條八十」(中公叢書・中公文庫)に書いている箇所を引用してみます。
「藤田(圭雄)は、『八十は学生時代から房州海岸が好きでよく遊びに行ったようだ』という。藤田の伯父正木直彦・・その日記『十三松堂日記』の明治44年8月11日の条に、西條八十らと『一行20人にて』『大行寺』から『羅漢寺鋸山』に登山したという記述があるのを藤田は見つけている。大行寺というのは内房線保田駅の前にある日蓮宗の寺で、幼少の藤田も大正初年には正木らとこの保田で夏を過ごしたので『大学生の西條さん』がいた記憶があるという。まだ内房線もなかった時代で、霊岸島から観音埼を廻って保田海岸に着くのだが、『当時の保田は、他には都会の人などほとんどいず、浜には砂丘がつづき、芒が美しかった。』
藤田は、八十が大正8年に刊行する『砂金』に収められた『海にて』『砂山の幻』『芒の唄』のほか、『かなりや』『たそがれ』にも『あの、広く、豊かな、当時の保田海岸』を『感じる』という。『東京湾から解き放たれた太平洋の波は真青だった。夜は観音埼の燈台がまたたき、空には星が一杯に輝いた。』藤田はこのことを(西條)八十に手紙で知らせた。すると『死の直前、昭和45年7月10日』付の手紙が八十から来た。そこには次のようにあった。『・・・・私の父は・・非常な倹約者で、少年時代海も山も知りませんでした、14歳で父に死なれその翌年か翌々年あたり私は旅行というものを初めてし、保田へ行ったのです。・・それから夏になるときまって保田へ行きました。・・・結婚してからは近くの漁師の家に泊りました。だから大兄の仰有るようにわたしの海の作品は房州海岸が基調になってゐます。・・・』」
まあ、「一つの詩の発生の源が一つの場所や体験に特定できるというのものでもないことはいうまでもなかろう。従ってこの点に関しては、上野不忍池で『かなりや』の唄の想が湧いた時に、『月夜の海』のイメージとしては『夏になるときまって』行った房州海岸や伊豆半島の片瀬があったということではないだろうか。」という的確慎重な指摘もしておられるのですが、房総に住む私としては、これはあらためて、記しておかなければならない記述でした(笑)。