司馬遼太郎著「『昭和』という国家」(NHK出版)を本棚から取り出して、パラパラと拾い読みしたのでした。これテレビの番組として語られたもので、生前には本として出ませんでした。司馬さんが許可しなかったようです。下書きもなく、ぶっつけ本番で、思うままに語ったというような語り口でした。
ときに人物を評していたりします。たとえば「私の尊敬する詩人で作家の富士正晴さんは・・・」(p107~108)なんてあったりする。そういえば、山田稔著「富士さんとわたし 手紙を読む」(編集工房ノア)という富士正晴さんについて書いた本があったのに、私はまだ読んでないなあ。などと思いだしたりします。今、上野では、福沢諭吉展が開かれているようですが、福沢諭吉への言及もあります。こんな箇所はどうでしょう。「福沢諭吉という人は、石橋湛山の回想録のもありますように、政府が実行できないようなことを政府にねだる論説はやめろという人でした。福沢諭吉は時事新報を主宰していましたから、『これを読んだら政府が実行したくなるようなものを書け』と言っていた。これは福沢の持っているひとつの魅力であります。福沢は在野の人であって、しかも民権論というカテゴリーにも入らないぐらいの、ずっしりとした市民精神を持った人ですね。」(p148~149)
また、こんな箇所もありました。
「『バラエティという言葉はいい言葉で、これは日本語にはできませんね』と言ったのは、たしか井伏鱒二さんだったと思いますが、たしかにバラエティという言葉はいい言葉です。バラエティがなければ、江戸時代の繁栄というものはない。それが明治をつくりあげるわけですね。」(p155)
忘れ難い、こんな箇所もありました。
「私が『坂の上の雲』という小説を書こうとした動機は、もうちょっと自分で明治を知りたいということでした。動機のうちの、いくつかのひとつに、やはりみなさんご存じの中村草田男の俳句がありました。『降る雪や明治は遠くなりにけり」草田男は明治34年の生まれでしたか、松山の人であります。大学生であることを30歳ぐらいまで続けていた暢気な人でして、たしか私は草田男の文章で読んだ記憶があるのですが、青山付近を通っていて、青山南小学校の生徒たちがランドセルを背負って校門から出てくるのを見ながら、この俳句が浮かんだと。それ以上のことはよくわかりません。つまり『明治は遠くなりにけり』というのは、明治という日本があったと、その明治という日本も遠くなったなということですね。それを草田男が感じたのは、昭和6年だった。激動の時代が始まろうとしている年であります。」(p162~163)
そして、次の第12章「自己解剖の勇気」は、こう語りはじまるのでした。
「「『昭和』への道」の最終回であります。何か最終回らしい意義のあることをお話しようとは思うのですけれど、なかなか思いつかないですね。」
この章だけ読んでも得ることが多いと思うのですが、ここでは、私が気になった最後の場面を、あらためて取り上げたいと思ったのでした。
じつは西原理恵子を思っていたら、司馬遼太郎のこの本につながったのでした。
西原理恵子著の新刊「この世でいちばん大事な『カネ』の話」(理論社)。その最初にこうありました。「わたしが育ったのは、高知県の浦戸っていう、漁師町だった。」(p11)
これにつられて、司馬さんの、この本の第12章の最後を引用してみます。
「・・・右から左から、東西南北、日本どこを問わず、偏差値ばかりです。もっとも偏差値もあまり悪いと情けなくなるときもありますね。私は坂本竜馬の国の、土佐のことをずいぶん書いたものですが、高知県というのは全国の最下位に近いんですね。おもしろい、非常にダイナミックなものの考え方のできる風土の土地だと思うのでですが、偏差値教育の場では最下位に近いんです。お隣の愛媛県は最上位に近い。同じ四国のなかでどうしてこれだけ違うんだろう。きっと土佐の人間には偏差値という社会が合わないのではないかと思うぐらいです。一人の女の子がいましてですね、その女の子は高等学校を出たばかりの、高知の子です。彼女は言います。全く偏差値社会とは関係ない子でして、こんなことをよく言います。『日本という国は息苦しい』と。どこかの国の人と結婚したい、もう日本の社会は私にはあわないという。高知の子であります。高知という、おおらかで、ダイナミックで、そして潔いところのある県はですね、おもしろい人をたくさん生みました。
革命家だけではなく、自由民権運動だけではなく、高知県には明治以後、名文家が多うございました。漱石が可愛がった寺田寅彦という物理学者がいますね。あるいは大町桂月もいます。非常に文章のうまい人が多いところですが、そういう知的な作業においても、おもしろいものを持った県が、どうして日本の事務局長養成型の偏差値社会に合わないのでしょうか。これは大きな何かを暗示していることだと思うのですね。このことは私の心配することではなくて、ただ言いっぱなしにしておきましょう。・・・・若い人がもし聞いてくださっていれば、その人が考えたらいい。その人が考えることであり、私はちょっと宿題というよりも、かすかなヒントを一人でしゃべっているだけであります。・・」
このヒントが、勝手に歩き出したようなのが、西原理恵子じゃないか(笑)。と、まあ愚考しているわけです。
ときに人物を評していたりします。たとえば「私の尊敬する詩人で作家の富士正晴さんは・・・」(p107~108)なんてあったりする。そういえば、山田稔著「富士さんとわたし 手紙を読む」(編集工房ノア)という富士正晴さんについて書いた本があったのに、私はまだ読んでないなあ。などと思いだしたりします。今、上野では、福沢諭吉展が開かれているようですが、福沢諭吉への言及もあります。こんな箇所はどうでしょう。「福沢諭吉という人は、石橋湛山の回想録のもありますように、政府が実行できないようなことを政府にねだる論説はやめろという人でした。福沢諭吉は時事新報を主宰していましたから、『これを読んだら政府が実行したくなるようなものを書け』と言っていた。これは福沢の持っているひとつの魅力であります。福沢は在野の人であって、しかも民権論というカテゴリーにも入らないぐらいの、ずっしりとした市民精神を持った人ですね。」(p148~149)
また、こんな箇所もありました。
「『バラエティという言葉はいい言葉で、これは日本語にはできませんね』と言ったのは、たしか井伏鱒二さんだったと思いますが、たしかにバラエティという言葉はいい言葉です。バラエティがなければ、江戸時代の繁栄というものはない。それが明治をつくりあげるわけですね。」(p155)
忘れ難い、こんな箇所もありました。
「私が『坂の上の雲』という小説を書こうとした動機は、もうちょっと自分で明治を知りたいということでした。動機のうちの、いくつかのひとつに、やはりみなさんご存じの中村草田男の俳句がありました。『降る雪や明治は遠くなりにけり」草田男は明治34年の生まれでしたか、松山の人であります。大学生であることを30歳ぐらいまで続けていた暢気な人でして、たしか私は草田男の文章で読んだ記憶があるのですが、青山付近を通っていて、青山南小学校の生徒たちがランドセルを背負って校門から出てくるのを見ながら、この俳句が浮かんだと。それ以上のことはよくわかりません。つまり『明治は遠くなりにけり』というのは、明治という日本があったと、その明治という日本も遠くなったなということですね。それを草田男が感じたのは、昭和6年だった。激動の時代が始まろうとしている年であります。」(p162~163)
そして、次の第12章「自己解剖の勇気」は、こう語りはじまるのでした。
「「『昭和』への道」の最終回であります。何か最終回らしい意義のあることをお話しようとは思うのですけれど、なかなか思いつかないですね。」
この章だけ読んでも得ることが多いと思うのですが、ここでは、私が気になった最後の場面を、あらためて取り上げたいと思ったのでした。
じつは西原理恵子を思っていたら、司馬遼太郎のこの本につながったのでした。
西原理恵子著の新刊「この世でいちばん大事な『カネ』の話」(理論社)。その最初にこうありました。「わたしが育ったのは、高知県の浦戸っていう、漁師町だった。」(p11)
これにつられて、司馬さんの、この本の第12章の最後を引用してみます。
「・・・右から左から、東西南北、日本どこを問わず、偏差値ばかりです。もっとも偏差値もあまり悪いと情けなくなるときもありますね。私は坂本竜馬の国の、土佐のことをずいぶん書いたものですが、高知県というのは全国の最下位に近いんですね。おもしろい、非常にダイナミックなものの考え方のできる風土の土地だと思うのでですが、偏差値教育の場では最下位に近いんです。お隣の愛媛県は最上位に近い。同じ四国のなかでどうしてこれだけ違うんだろう。きっと土佐の人間には偏差値という社会が合わないのではないかと思うぐらいです。一人の女の子がいましてですね、その女の子は高等学校を出たばかりの、高知の子です。彼女は言います。全く偏差値社会とは関係ない子でして、こんなことをよく言います。『日本という国は息苦しい』と。どこかの国の人と結婚したい、もう日本の社会は私にはあわないという。高知の子であります。高知という、おおらかで、ダイナミックで、そして潔いところのある県はですね、おもしろい人をたくさん生みました。
革命家だけではなく、自由民権運動だけではなく、高知県には明治以後、名文家が多うございました。漱石が可愛がった寺田寅彦という物理学者がいますね。あるいは大町桂月もいます。非常に文章のうまい人が多いところですが、そういう知的な作業においても、おもしろいものを持った県が、どうして日本の事務局長養成型の偏差値社会に合わないのでしょうか。これは大きな何かを暗示していることだと思うのですね。このことは私の心配することではなくて、ただ言いっぱなしにしておきましょう。・・・・若い人がもし聞いてくださっていれば、その人が考えたらいい。その人が考えることであり、私はちょっと宿題というよりも、かすかなヒントを一人でしゃべっているだけであります。・・」
このヒントが、勝手に歩き出したようなのが、西原理恵子じゃないか(笑)。と、まあ愚考しているわけです。