今日、古本屋から外山滋比古著「忘却の力」(みすず書房)が届く。
読み始めると(「忘却の整理学」を読んでいる途中なのですが)、その本とは毛色が違っておりました。「忘却の力」は短文のコラムをまとめた一冊。
ちょっと気になった箇所。
「小説はヨーロッパで出来た大型表現で、ひところは上中下三冊という作品が流行した。散文が未発達だったからで、文章力が高まってショート・ストーリーがあらわれた。しかし、なお充分短くはない。」(p111)
「わたくしが、好んで追悼文を読み、コラムに親しむのも、ワン・シッティングでかたがつくからである。雑誌でも長大論文は敬遠して、埋草のようなものを喜ぶ、こういう性向はひろく現代人に共有されていて、本は読まないが、週刊誌を読むのである。週刊誌の雑駁な記事に比べて、追悼文は練られていて親しむに足りる。」(p135)
そして、この「忘却の力」が親しめるコラムになっているのに驚く。
私には、学校の先生の授業の余談を聴いているような奇妙な感じをともないますが、それにしても、味わいが深いなあ。
ところで、清水幾太郎著作集の第19巻の月報(1993年)は外山滋比古氏が書いておりました。題して「知的散文の創造」とあります。そこから引用。
その月報で、翻訳の文章を取り上げておりました。
「日本語の論理がおかしいのではない。元来、日本語になかった要素を訳文にもち込んだために筋道の通りが悪くなったのである。これは一例にすぎないが、そうした翻訳文体が一般の知的散文を支配するようになり、日本語の二重構造を招来した。日本語は外国語と違う。そして日本語には独自の表現様式があるということをはっきりのべたのは谷崎潤一郎である。『文章読本』の中で、原文に忠実に逐語訳した訳文を例にして、それ以上、原文に即すれば日本語でなくなるということを実地に示した。訳文は原文べったりであってはならない、原文離れが必要だというのである。文学の立場で、欧文の原文に引かれた翻訳文体から独立した日本語本来のスタイルを求めたものである。
こうした考えは思想、学問の世界へすぐには及ばなかった。もっとも、まったく変化がなかったわけではない。『文章読本』の出たのは1934年であるが、そのころから清水幾太郎はやがて谷崎潤一郎が文学に関して考え実践したことを知的散文においてすることになるからである。
その仕事とは外国文献の紹介と批評を千字の枠の中で行なうものであった。・・・・」
その月報の最後は、というと
「・・・・[裸の思想]はいけないが、文章はたんにその衣裳であるのではない。包まれている思想と不可分に融合している。そういう清水レトリックは知的散文を一般の人々の理解の範囲へ引き寄せるのに大きな貢献をした。文は思考であり、思想は人である。それを具現したのが清水幾太郎であった。それは個人の文体創造にとどまらず、近代日本が苦しみつづけた翻訳文体という借着を脱ぎすて、体に合った知的文体の獲得という歴史的意義をもつことになった。」
さて、1923年生まれの外山滋比古氏の、80歳をこえられた、その人の散文コラムを私はいま読んでいるのだと、あらためて、この「忘却の力」を読みながら思うのでした。
まだ途中ですけれど・・・
読み始めると(「忘却の整理学」を読んでいる途中なのですが)、その本とは毛色が違っておりました。「忘却の力」は短文のコラムをまとめた一冊。
ちょっと気になった箇所。
「小説はヨーロッパで出来た大型表現で、ひところは上中下三冊という作品が流行した。散文が未発達だったからで、文章力が高まってショート・ストーリーがあらわれた。しかし、なお充分短くはない。」(p111)
「わたくしが、好んで追悼文を読み、コラムに親しむのも、ワン・シッティングでかたがつくからである。雑誌でも長大論文は敬遠して、埋草のようなものを喜ぶ、こういう性向はひろく現代人に共有されていて、本は読まないが、週刊誌を読むのである。週刊誌の雑駁な記事に比べて、追悼文は練られていて親しむに足りる。」(p135)
そして、この「忘却の力」が親しめるコラムになっているのに驚く。
私には、学校の先生の授業の余談を聴いているような奇妙な感じをともないますが、それにしても、味わいが深いなあ。
ところで、清水幾太郎著作集の第19巻の月報(1993年)は外山滋比古氏が書いておりました。題して「知的散文の創造」とあります。そこから引用。
その月報で、翻訳の文章を取り上げておりました。
「日本語の論理がおかしいのではない。元来、日本語になかった要素を訳文にもち込んだために筋道の通りが悪くなったのである。これは一例にすぎないが、そうした翻訳文体が一般の知的散文を支配するようになり、日本語の二重構造を招来した。日本語は外国語と違う。そして日本語には独自の表現様式があるということをはっきりのべたのは谷崎潤一郎である。『文章読本』の中で、原文に忠実に逐語訳した訳文を例にして、それ以上、原文に即すれば日本語でなくなるということを実地に示した。訳文は原文べったりであってはならない、原文離れが必要だというのである。文学の立場で、欧文の原文に引かれた翻訳文体から独立した日本語本来のスタイルを求めたものである。
こうした考えは思想、学問の世界へすぐには及ばなかった。もっとも、まったく変化がなかったわけではない。『文章読本』の出たのは1934年であるが、そのころから清水幾太郎はやがて谷崎潤一郎が文学に関して考え実践したことを知的散文においてすることになるからである。
その仕事とは外国文献の紹介と批評を千字の枠の中で行なうものであった。・・・・」
その月報の最後は、というと
「・・・・[裸の思想]はいけないが、文章はたんにその衣裳であるのではない。包まれている思想と不可分に融合している。そういう清水レトリックは知的散文を一般の人々の理解の範囲へ引き寄せるのに大きな貢献をした。文は思考であり、思想は人である。それを具現したのが清水幾太郎であった。それは個人の文体創造にとどまらず、近代日本が苦しみつづけた翻訳文体という借着を脱ぎすて、体に合った知的文体の獲得という歴史的意義をもつことになった。」
さて、1923年生まれの外山滋比古氏の、80歳をこえられた、その人の散文コラムを私はいま読んでいるのだと、あらためて、この「忘却の力」を読みながら思うのでした。
まだ途中ですけれど・・・