セレンディピティという言葉は、外山滋比古氏のエッセイを読んでいると随所に出てくるのでした。まずは、「思考の整理学」(ちくま文庫)では、
「戦後しばらくのころ、アメリカで対潜水艦兵器の開発に力を入れていた。それには、まず、潜水艦の機関音をとらえる優秀な音波探知機をつくる必要があった。」とはじまって、
それがイルカの交信という別の新しい発見に導かれたことを、説明して
「科学者の間では、こういう行きがけの駄賃のようにして生まれる発見、発明のことを、セレンディピティと呼んでいる。ことにアメリカでは、日常会話にもしばしば出るほどになっている。自然科学の世界はともかく、わが国の知識人の間でさえ、セレンディピティということばをきくことがすくないのは、一般に創造的思考への関心が充分でないことを物語っているのかもしれない。・・」(p66)
「ちょっとした勉強のコツ」(PHP文庫)では、「セレンディピティ 偶然の発見」と題しており、こうはじめておりました。
「いつも机の上がちらかっているものだから、ほしいものが、どこかにまぎれて見つからない。消しゴムを探しているのに、どこへ雲がくれしたのか、出てこない。ところが、思いもかけず、万年筆がとび出してくる。前にさんざん探したのに、どうしても見つからなかったものである。書棚の本をとり出そうと、心当たりのところへ行ってみると、求める本はなくて、その代わりというのもおかしいが、かつて見たいと思いながら、どうしても見つからなかった本が目に入った。何だ、こんなところにあったのか、となるのである。・・・こういう思いがけない発見、目標としていないところの発見のことを、セレンディピティというのである。自然科学における大きな発見で、セレンディピティによるものがすくなくない。ねらっていることはうまくいかないのに、行きがけの駄賃のように夢にも考えなかった大きなものを見つける。偶然の、幸運な発見である。アメリカ人はこのセレンディピティということばがよほど好きらしい。セレンディピティを名乗るレストランやデパート、競走馬まであるという話である。このことばの響きがよいのだ、という人もいる。」(p140~)
「知的創造のヒント」(講談社現代新書)には、どう書かれていたか。
「・・この偶然のことをセレンディピティというのである。これは、科学者には親しまれている日常語のひとつといってよい。昔、セイロンに三人の王子がいて、思いがけないものを掘り出す名人であった。かれらが当面さがしているものではない別のすばらしいものをさがし当てるということを筋にした童話があった。それが十八世紀のイギリスで、『セレンディップの三人の王子』と呼ばれた。セレンディップとはセイロン、いまのスリランカの古名。
ホレス・ウォルポールというイギリスの小説家が、この童話をもとにして、セレンディピティーという語を造り、偶然に思いがけない発見をすることの意味に使った。1754年1月28日、友人あての手紙の中ではじめてこれを用いたという。」(p57)
「何かやってうまくいかなかったらいい加減でそれをひとまずお預けにする。そしておもしろそうなことを何かやってみる。その間に、はじめやっていたことは路傍の花のように見える、いいかえると、セレンディピティーをおこしやすい位置に見える。しばらくしたら、また帰ってきてもう一度試みてみると、こんどは案外すらすら進む。そういうことがあるものだ。これはしばらく風を入れていたことになる。寝かせていたのである。ウィラ・キャザーというアメリカの女流小説家が『ひとつでは多すぎる。ひとつだけではそれがすべてを独占してしまう』ということばを残している。彼女のいったのは恋愛のことで、恋人がひとりだとものが見えなくなってしまって危険だという指摘だが、このひとつをひとつだけの関心と読みかえてみるのもおもしろい。考えようとすることも『ひとつでは多すぎる。ひとつだけではそれがすべてを独占してしまう』ために、不毛になる。人間は好むと好まざるとにかかわらず、じつにさまざまなことをしなくてはならないように運命づけられている。その点で機械とはまったく違う。これは、思えば幸いなことである。
近代の人間は有能な専門機械のようにごく狭い範囲の仕事にだけ高度の能力をもつことを理想にしてきたために、大らかな創造の喜びを知ることがすくなくなってしまった。普通の生活をしていれば、セレンディピティーのようなことは毎日のように起る。それをわれわれは何気なく『ふとおもしろいことを思い付いた』などといって見のがしているが、思い付きはもっと大事にされなくてはならない。・・・」(~p60)
このセレンディピティーは、ちょっと学生に説明するのは難しいらしいですね。
外山氏は「思考の整理学」でこう書きこんでおります。
「論文を書こうとしている学生に言うことにしている。
『テーマはひとつでは多すぎる。すくなくとも、二つ、できれば、三つもって、スタートしてほしい』。きいた方では、なぜ、ひとつでは『多すぎる』のかぴんと来ないらしいが、そんなことはわかるときになれば、わかる。わからぬときにいくら説明しても無駄である。」(p43)
ちなみに、藤原書店から、よしだみどり訳で「セレンディピティ物語 幸せを招(よ)ぶ三人の王子」が出ております。昨年の暮れに、別の本を探し物をしていて、その本が出てきました。
どんな内容かは読んでのお楽しみ。
そういえば、「ことばの四季」(中公文庫)で外山氏はこう語っておりました。
「『こどもは喜んで聞いてくれますけれど、オトギバナシって、話す方には、バカゲていて、ほんとにつまりませんね』
若いお母さんが、そんなことを言った。女性の教育水準が高くなったせいか、同じような気持をいだく人がふえているらしい。ときどきこれに近いことばを耳にする。これは解釈のおもしろさを知らない人のせりふである。昔話、伝説には案外大きな含みがある。・・・思いがけない発見もある。おとなにとってもオトギバナシは結構たのしめるのである。」(p131)
もっとも、ここでは、セレンディピティー物語じゃなくて、モモタロウの話につなげておりました。
解釈ということで、ついでですから、
2010年1月1日読売新聞の文化欄に外山滋比古氏の談話が掲載されておりました。そのはじまりを引用。
「本を読むのは面倒なものだ。
初心者は、最後まで読み通すのに根気と我慢がいると覚悟したほうがいいだろう。読書には『解釈』という、日常の生活ではめったに使わない頭の働きが必要となる。己の頭で活字を意味に替え、創造力や想像力を働かせて理解する過程が、思考力を高めてくれる。・・・」
この全文引用をしたいのはやまやまながら、これくらいで。
「戦後しばらくのころ、アメリカで対潜水艦兵器の開発に力を入れていた。それには、まず、潜水艦の機関音をとらえる優秀な音波探知機をつくる必要があった。」とはじまって、
それがイルカの交信という別の新しい発見に導かれたことを、説明して
「科学者の間では、こういう行きがけの駄賃のようにして生まれる発見、発明のことを、セレンディピティと呼んでいる。ことにアメリカでは、日常会話にもしばしば出るほどになっている。自然科学の世界はともかく、わが国の知識人の間でさえ、セレンディピティということばをきくことがすくないのは、一般に創造的思考への関心が充分でないことを物語っているのかもしれない。・・」(p66)
「ちょっとした勉強のコツ」(PHP文庫)では、「セレンディピティ 偶然の発見」と題しており、こうはじめておりました。
「いつも机の上がちらかっているものだから、ほしいものが、どこかにまぎれて見つからない。消しゴムを探しているのに、どこへ雲がくれしたのか、出てこない。ところが、思いもかけず、万年筆がとび出してくる。前にさんざん探したのに、どうしても見つからなかったものである。書棚の本をとり出そうと、心当たりのところへ行ってみると、求める本はなくて、その代わりというのもおかしいが、かつて見たいと思いながら、どうしても見つからなかった本が目に入った。何だ、こんなところにあったのか、となるのである。・・・こういう思いがけない発見、目標としていないところの発見のことを、セレンディピティというのである。自然科学における大きな発見で、セレンディピティによるものがすくなくない。ねらっていることはうまくいかないのに、行きがけの駄賃のように夢にも考えなかった大きなものを見つける。偶然の、幸運な発見である。アメリカ人はこのセレンディピティということばがよほど好きらしい。セレンディピティを名乗るレストランやデパート、競走馬まであるという話である。このことばの響きがよいのだ、という人もいる。」(p140~)
「知的創造のヒント」(講談社現代新書)には、どう書かれていたか。
「・・この偶然のことをセレンディピティというのである。これは、科学者には親しまれている日常語のひとつといってよい。昔、セイロンに三人の王子がいて、思いがけないものを掘り出す名人であった。かれらが当面さがしているものではない別のすばらしいものをさがし当てるということを筋にした童話があった。それが十八世紀のイギリスで、『セレンディップの三人の王子』と呼ばれた。セレンディップとはセイロン、いまのスリランカの古名。
ホレス・ウォルポールというイギリスの小説家が、この童話をもとにして、セレンディピティーという語を造り、偶然に思いがけない発見をすることの意味に使った。1754年1月28日、友人あての手紙の中ではじめてこれを用いたという。」(p57)
「何かやってうまくいかなかったらいい加減でそれをひとまずお預けにする。そしておもしろそうなことを何かやってみる。その間に、はじめやっていたことは路傍の花のように見える、いいかえると、セレンディピティーをおこしやすい位置に見える。しばらくしたら、また帰ってきてもう一度試みてみると、こんどは案外すらすら進む。そういうことがあるものだ。これはしばらく風を入れていたことになる。寝かせていたのである。ウィラ・キャザーというアメリカの女流小説家が『ひとつでは多すぎる。ひとつだけではそれがすべてを独占してしまう』ということばを残している。彼女のいったのは恋愛のことで、恋人がひとりだとものが見えなくなってしまって危険だという指摘だが、このひとつをひとつだけの関心と読みかえてみるのもおもしろい。考えようとすることも『ひとつでは多すぎる。ひとつだけではそれがすべてを独占してしまう』ために、不毛になる。人間は好むと好まざるとにかかわらず、じつにさまざまなことをしなくてはならないように運命づけられている。その点で機械とはまったく違う。これは、思えば幸いなことである。
近代の人間は有能な専門機械のようにごく狭い範囲の仕事にだけ高度の能力をもつことを理想にしてきたために、大らかな創造の喜びを知ることがすくなくなってしまった。普通の生活をしていれば、セレンディピティーのようなことは毎日のように起る。それをわれわれは何気なく『ふとおもしろいことを思い付いた』などといって見のがしているが、思い付きはもっと大事にされなくてはならない。・・・」(~p60)
このセレンディピティーは、ちょっと学生に説明するのは難しいらしいですね。
外山氏は「思考の整理学」でこう書きこんでおります。
「論文を書こうとしている学生に言うことにしている。
『テーマはひとつでは多すぎる。すくなくとも、二つ、できれば、三つもって、スタートしてほしい』。きいた方では、なぜ、ひとつでは『多すぎる』のかぴんと来ないらしいが、そんなことはわかるときになれば、わかる。わからぬときにいくら説明しても無駄である。」(p43)
ちなみに、藤原書店から、よしだみどり訳で「セレンディピティ物語 幸せを招(よ)ぶ三人の王子」が出ております。昨年の暮れに、別の本を探し物をしていて、その本が出てきました。
どんな内容かは読んでのお楽しみ。
そういえば、「ことばの四季」(中公文庫)で外山氏はこう語っておりました。
「『こどもは喜んで聞いてくれますけれど、オトギバナシって、話す方には、バカゲていて、ほんとにつまりませんね』
若いお母さんが、そんなことを言った。女性の教育水準が高くなったせいか、同じような気持をいだく人がふえているらしい。ときどきこれに近いことばを耳にする。これは解釈のおもしろさを知らない人のせりふである。昔話、伝説には案外大きな含みがある。・・・思いがけない発見もある。おとなにとってもオトギバナシは結構たのしめるのである。」(p131)
もっとも、ここでは、セレンディピティー物語じゃなくて、モモタロウの話につなげておりました。
解釈ということで、ついでですから、
2010年1月1日読売新聞の文化欄に外山滋比古氏の談話が掲載されておりました。そのはじまりを引用。
「本を読むのは面倒なものだ。
初心者は、最後まで読み通すのに根気と我慢がいると覚悟したほうがいいだろう。読書には『解釈』という、日常の生活ではめったに使わない頭の働きが必要となる。己の頭で活字を意味に替え、創造力や想像力を働かせて理解する過程が、思考力を高めてくれる。・・・」
この全文引用をしたいのはやまやまながら、これくらいで。