和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

私の中の

2010-01-29 | 他生の縁
福原麟太郎の文に「私の中の日本人」という文がある。
昭和49年10月「波」に掲載されたもので、
私が読んだのは、福原麟太郎随想全集7「思い出の記」(福武書店)。
さて、河上徹太郎の文「私の中の日本人――福原麟太郎」は、
いつ書かれたのだったか。
河上徹太郎著「史伝と文芸批評」(作品社)の初出誌一覧を見ると、
それは昭和50年1月の「波」に掲載されたとあります。

うん。河上徹太郎氏の「私の中の日本人」は、
福原麟太郎氏の文をもとに書かれているのだと判るのです。
それは、読み比べて見るとよくわかる。


まあ、それはそれとして、吉田健一。
吉田健一著「交遊録」の中に「福原麟太郎」という題の文がありました。
そこに、外山滋比古氏がちらりと登場する箇所があります。
そこの引用。

「併しいつだつたか確か外山滋比古氏の『修辞的残像』の出版記念会に出席したことがあつた。この会は外山氏自身の望みよりも福原さんの提唱で行はれたものと思はれて集つたのも外山氏の他に福原さんの弟子に属する系統の人達だつた。ここでは弟子といふ言葉が正当に使へる。それはその会の空気で何か思ひ出すことがあるのを感じてそのうちに記憶に戻つて来たのがこつちが大学で過した日々だつたからである。・・・・
これは寧ろ優れた人間がその教へを何かの意味で受けたものに取り巻かれてゐるのを見るのは人に勇気を出させるものであると言ふ方が当つてゐる。」

以上丁寧な引用じゃないのですが、
何冊か響きあう読みが可能な箇所であり、
読みつなげると面白い。

ちなみに、「吉田健一集成3 批評Ⅲ」(新潮社)の解題によると、
吉田健一の「交遊録」は1972年より「ユリイカ」に連載されたもので、「交遊録第七回・福原麟太郎」は、1973年1月号となっています。
1973年といえば、昭和48年。まあ、1月号なら昭和47年の暮れでしょうか。

雑誌掲載の順に並べると、
吉田健一のユリイカ。昭和48年1月。
福原麟太郎の「波」。昭和49年10月。
河上徹太郎の「波」。昭和50年1月。
うん。この順番に、文が書かれていったことになるなあ。

コメント
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