忘却ということで、
外山滋比古氏の「忘却の整理学」「忘却の力」の二冊を読みました。
短文コラムの「忘却の力」(みすず書房)の方が読みやすかった。
授業中の教師による雑談のような味わい。あとで、きっと思い出されるだろうことが詰っているような。そんな味わい。
「忘却の整理学」(筑摩書房)の方は、テーマでまとめてみました。という感じ。
私は「忘却の力」の方が好きです。
というか、両方を読むとですね。
その味わいの微妙な差を愉しむことができる。
そんな贅沢が味わえます。
ちょっとしたことですが、すこし引用しましょ。
手紙について、
「昔のはなし。平田禿木という文学者がいた。雑誌の記者が訪れて、原稿執筆を依頼する。禿木先生にこやかにそれを承諾する。記者がほかをまわって帰ると、禿木からの速達が来ていて(昔の郵便はそれほど速かった)、『執筆いたしかね候』などとあって仰天する。そういうことがあちこちでおこって有名になった。面と向って言いにくいことも、手紙なら言いやすいのかもしれない。それに候文というスタイルは社交の原理をうまく回避することができるのか。」(「忘却の力」p174)
これが、「忘却の整理学」では、こんな感じでありました。
「大事な用件を電話で伝え、即答を求める人がいる。受けた方も経験が乏しいと、なんとしても即答しないといけないように思って、よく考えもしないで、返事をしてしまうことがある。しばらくすると、しまった、早まった、と思うが、取消しの電話をするのもはばかられる。ぐずぐずしているうちに、具体的に処理しなくてはならなくなって、苦労する。こういうことが何度かあると、電話の返事に慎重になる。心ある人は、熟慮を要するようなことは電話で伝えることを控える。手紙で書けば、相手にはたっぷり考える時間がある。」(p145)
さて、どちらの文が好きかは、好みの問題でしょうか。
ついでに原稿ということで、「忘却の整理学」に寺田寅彦氏が登場しておりました。
「寺田寅彦はエッセイを書いた最初の科学者で、文名が高くなるにつれて多くの原稿を書いたが、いつも締切りに後れるようなことはなかった、と伝えられる。
寅彦は、執筆を依頼されて、引受けると、その日のうちに書いてしまったらしい。すすめられて、書く気になったところで書くのは最高のタイミングであろう。締切り間近までほっておくと、はじめの乗り気はもちろん消えてしまっているから、とりかかるまでのウォーミング・アップにも時間がかかって、締切りに追われることになる。そういうことを避けるには、書きたいと思ったとき、しかも、締切りは大分先である。圧迫感はなく、自由にのびのび書くことができる。そうして出来た原稿を机の抽出しに納めて、締切りを待ち、読み返した原稿を渡すという順序である。結果がよいから、それがルールのようになったのであろうか。」(p117)
このあとある作家のことを編集者の回顧録で読んだと引用しておりました。
それは
「ある流行作家である。原稿を頼まれると、なるべく早く、出来れば、その日のうちに、短篇なら書き上げてしまう。寅彦流である。
そして締切り。雑誌記者が、原稿をもらいに来る。先生、すこしもさわがず、編集者を待たせて、読み返し、手を入れてから渡した。それだけ待たせるには権威がないと出来ないことだが、やはり、書きたての原稿をロクに読み返しもせずに渡しているのにくらべたら、文章の洗練度が違う。
原稿は風に入れて、ひととき寝かせてやらないと、うまい推敲にならないことをこれらの挿話は伝えている。」(p118)
このあとに推敲の話と、ヘミングウェイの貸金庫という話がつづいておりました。
どっちかといえば、「忘却の力」の方が、授業で脱線する教師のように、個人的な生活の様子が窺い知れたりするのです(笑)。
外山滋比古氏の「忘却の整理学」「忘却の力」の二冊を読みました。
短文コラムの「忘却の力」(みすず書房)の方が読みやすかった。
授業中の教師による雑談のような味わい。あとで、きっと思い出されるだろうことが詰っているような。そんな味わい。
「忘却の整理学」(筑摩書房)の方は、テーマでまとめてみました。という感じ。
私は「忘却の力」の方が好きです。
というか、両方を読むとですね。
その味わいの微妙な差を愉しむことができる。
そんな贅沢が味わえます。
ちょっとしたことですが、すこし引用しましょ。
手紙について、
「昔のはなし。平田禿木という文学者がいた。雑誌の記者が訪れて、原稿執筆を依頼する。禿木先生にこやかにそれを承諾する。記者がほかをまわって帰ると、禿木からの速達が来ていて(昔の郵便はそれほど速かった)、『執筆いたしかね候』などとあって仰天する。そういうことがあちこちでおこって有名になった。面と向って言いにくいことも、手紙なら言いやすいのかもしれない。それに候文というスタイルは社交の原理をうまく回避することができるのか。」(「忘却の力」p174)
これが、「忘却の整理学」では、こんな感じでありました。
「大事な用件を電話で伝え、即答を求める人がいる。受けた方も経験が乏しいと、なんとしても即答しないといけないように思って、よく考えもしないで、返事をしてしまうことがある。しばらくすると、しまった、早まった、と思うが、取消しの電話をするのもはばかられる。ぐずぐずしているうちに、具体的に処理しなくてはならなくなって、苦労する。こういうことが何度かあると、電話の返事に慎重になる。心ある人は、熟慮を要するようなことは電話で伝えることを控える。手紙で書けば、相手にはたっぷり考える時間がある。」(p145)
さて、どちらの文が好きかは、好みの問題でしょうか。
ついでに原稿ということで、「忘却の整理学」に寺田寅彦氏が登場しておりました。
「寺田寅彦はエッセイを書いた最初の科学者で、文名が高くなるにつれて多くの原稿を書いたが、いつも締切りに後れるようなことはなかった、と伝えられる。
寅彦は、執筆を依頼されて、引受けると、その日のうちに書いてしまったらしい。すすめられて、書く気になったところで書くのは最高のタイミングであろう。締切り間近までほっておくと、はじめの乗り気はもちろん消えてしまっているから、とりかかるまでのウォーミング・アップにも時間がかかって、締切りに追われることになる。そういうことを避けるには、書きたいと思ったとき、しかも、締切りは大分先である。圧迫感はなく、自由にのびのび書くことができる。そうして出来た原稿を机の抽出しに納めて、締切りを待ち、読み返した原稿を渡すという順序である。結果がよいから、それがルールのようになったのであろうか。」(p117)
このあとある作家のことを編集者の回顧録で読んだと引用しておりました。
それは
「ある流行作家である。原稿を頼まれると、なるべく早く、出来れば、その日のうちに、短篇なら書き上げてしまう。寅彦流である。
そして締切り。雑誌記者が、原稿をもらいに来る。先生、すこしもさわがず、編集者を待たせて、読み返し、手を入れてから渡した。それだけ待たせるには権威がないと出来ないことだが、やはり、書きたての原稿をロクに読み返しもせずに渡しているのにくらべたら、文章の洗練度が違う。
原稿は風に入れて、ひととき寝かせてやらないと、うまい推敲にならないことをこれらの挿話は伝えている。」(p118)
このあとに推敲の話と、ヘミングウェイの貸金庫という話がつづいておりました。
どっちかといえば、「忘却の力」の方が、授業で脱線する教師のように、個人的な生活の様子が窺い知れたりするのです(笑)。