寒いと、ついついコタツに。
家では、冷暖房完備とはいかないので、ホットカーペットの上にコタツ。
そこに、あぐらをかけば、ゴロリと横になり、枕がほしくなり。
お~い、毎年おなじじゃないか。
さ~て、そんなコタツで読む本に、
外山滋比古著「ちょとした勉強のコツ」(PHP文庫)がありました。
そこに「いざ立て」という8ページほどの文。
そこにコタツが出てきました。
「椅子に腰をかけていると、立居に敏捷さを欠く。立っていればすぐ動けるが、すわっていれば、立ち上がらなくてはならない(コタツに入っていると、不精になって、めったなことでは立とうとしないで、人を使う)。立ったままで仕事をするのは、よい考えである。ただ、機敏に動けるというだけでなく、仕事そのものの能率も高まる。」(p68)
ふ~ん。とコタツに入りながら私は読んでいるわけです。
せっかくですから、肝心なそのつづきも引用してゆきます。
「仕事をするには、立っていなくてはいけない。かつて、イギリスで事務をとる者は、すべて立っていた。記帳したり、書類をつくるのに、机は必要であるが、椅子に腰かけて机に向かうのではない。立って使うのにちょうどいいように高くなっている。
机で書いたり読んだりの仕事をすると、どうしても前かがみになる。姿勢がよくない。そうならないように、イギリスの書きもの机は、上が平らではなく、手前さがりの斜面になっている。これだと、直立の姿勢で文字を書くことができる。事務処理の能率が上がるのはもちろんである。
ただ、立っているのが疲れるから、というので、こういう机がすくなくなり、椅子にかけて、平面机で仕事をするのが普通になった。
平面机だと、本を読むような場合も、上と下とでは、目との距離がちがうから、読みにくくなるはずである。前さがりの斜面机だと、上下で目との距離がほとんど変わらなくて、目のためにもよろしい。合理的な机である。ところが、こういう机はいまではほとんどなくなってしまった。勉強机には斜面机が最高である。・・・」
ここからすこし話題がそれて、1ページ半ほどあとに
「かくいう私も、そういう机で仕事をしたことがある。普通のすわり机の上に、立ってちょうどよい高さになる箱を置いて、その上で書きものをした。頭のはたらきがよくなったかどうかはわからなかったが、これだと、手早くことがすすむことはたしかである。
そういう試みをするきっかけは、ある評論家が、原稿はすべて立って書く、腰をおろして書いたのでは文章に力が入らない、勢いがなくてダメだ、と断言するのをきいて、それなら、ひとつ自分もやってみようと思ったのである。しかし、あり合わせの箱などをのせた机だから、どうもおちつかない。半年もしてもとの机に戻ってしまった。その評論家は、特別にあつらえて、立ち机をこしらえたと言っていた。・・・」
さあ~て。この文にある「ある評論家が」というのは、はたしてどなたか?
ひょっとしたら、と思える文がありました。
「清水幾太郎著作集19」(講談社)の月報は外山滋比古氏でした題して「知的散文の創造」とあり、以前読んだことがありました。その第19巻の補遺の文に「立ち机の功用」という2ページの文があったのでした。
ここは、重要だと思いますので、コタツに入りながらの私ではありますが、
ちょっと、簡単には手に入らない本でしょうから、ていねいに引用させていただきます。
はじまりから
「約25年間、私はこれが欲しくて堪らなかった。初めて見たのは、1930年代の末、私が関係していた上智大学付設の修道院の、J・B・クラウスの部屋であった。細長い彼の部屋には、寝台と、少しの書物と、これとがあったように覚えている。
初めて見る私に向って、これがいかに便利であるかをクラウスは強調した。しかし、彼が強調するまでもなく、私は忽ちこれが欲しくなっていた。私が欲しくなったのは、そうとは気づかなかったものの、何かを考える時、部屋の中をウロウロと歩き廻る私の癖、考えつくと、考えが逃げ出すのを恐れて、ソワソワとメモをとる私の癖、少しでも気にかかる点に出会うと、あの本、この本と、それを本気で読むというのでなく、忙しく開いてみる私の癖・・・そういう癖のある私にとって、これは、恐らくクラウスにとってより便利なものと感じられたのであろう。
・・・欲しくて堪らなかったが、それどころでない戦争の日々が続き、戦争後のドサクサの最中にクラウスは死んでしまった。たまさか、家具屋などに話しても、なかなか判って貰えず・・長い年月が経てしまった。」
その後、四分の一世紀あとに、鈴木寿美子氏がつくってくれることになるのでした。
ちなみにこの清水氏の文は(昭和39年9月)に書かれております。
う~ん。外山氏の月報には、その机について書かれてはいないのですが、
外山氏の文庫の箇所「その評論家は、特別にあつらえて、立ち机をこしらえたと言っていた」とあるので、おそらく清水幾太郎氏が「その評論家」で、まずは間違いなさそうです。
そうは思いませんか。何ともコタツに入りながら、こうして同意をもとめるのは、場違いだと感じつつ。
家では、冷暖房完備とはいかないので、ホットカーペットの上にコタツ。
そこに、あぐらをかけば、ゴロリと横になり、枕がほしくなり。
お~い、毎年おなじじゃないか。
さ~て、そんなコタツで読む本に、
外山滋比古著「ちょとした勉強のコツ」(PHP文庫)がありました。
そこに「いざ立て」という8ページほどの文。
そこにコタツが出てきました。
「椅子に腰をかけていると、立居に敏捷さを欠く。立っていればすぐ動けるが、すわっていれば、立ち上がらなくてはならない(コタツに入っていると、不精になって、めったなことでは立とうとしないで、人を使う)。立ったままで仕事をするのは、よい考えである。ただ、機敏に動けるというだけでなく、仕事そのものの能率も高まる。」(p68)
ふ~ん。とコタツに入りながら私は読んでいるわけです。
せっかくですから、肝心なそのつづきも引用してゆきます。
「仕事をするには、立っていなくてはいけない。かつて、イギリスで事務をとる者は、すべて立っていた。記帳したり、書類をつくるのに、机は必要であるが、椅子に腰かけて机に向かうのではない。立って使うのにちょうどいいように高くなっている。
机で書いたり読んだりの仕事をすると、どうしても前かがみになる。姿勢がよくない。そうならないように、イギリスの書きもの机は、上が平らではなく、手前さがりの斜面になっている。これだと、直立の姿勢で文字を書くことができる。事務処理の能率が上がるのはもちろんである。
ただ、立っているのが疲れるから、というので、こういう机がすくなくなり、椅子にかけて、平面机で仕事をするのが普通になった。
平面机だと、本を読むような場合も、上と下とでは、目との距離がちがうから、読みにくくなるはずである。前さがりの斜面机だと、上下で目との距離がほとんど変わらなくて、目のためにもよろしい。合理的な机である。ところが、こういう机はいまではほとんどなくなってしまった。勉強机には斜面机が最高である。・・・」
ここからすこし話題がそれて、1ページ半ほどあとに
「かくいう私も、そういう机で仕事をしたことがある。普通のすわり机の上に、立ってちょうどよい高さになる箱を置いて、その上で書きものをした。頭のはたらきがよくなったかどうかはわからなかったが、これだと、手早くことがすすむことはたしかである。
そういう試みをするきっかけは、ある評論家が、原稿はすべて立って書く、腰をおろして書いたのでは文章に力が入らない、勢いがなくてダメだ、と断言するのをきいて、それなら、ひとつ自分もやってみようと思ったのである。しかし、あり合わせの箱などをのせた机だから、どうもおちつかない。半年もしてもとの机に戻ってしまった。その評論家は、特別にあつらえて、立ち机をこしらえたと言っていた。・・・」
さあ~て。この文にある「ある評論家が」というのは、はたしてどなたか?
ひょっとしたら、と思える文がありました。
「清水幾太郎著作集19」(講談社)の月報は外山滋比古氏でした題して「知的散文の創造」とあり、以前読んだことがありました。その第19巻の補遺の文に「立ち机の功用」という2ページの文があったのでした。
ここは、重要だと思いますので、コタツに入りながらの私ではありますが、
ちょっと、簡単には手に入らない本でしょうから、ていねいに引用させていただきます。
はじまりから
「約25年間、私はこれが欲しくて堪らなかった。初めて見たのは、1930年代の末、私が関係していた上智大学付設の修道院の、J・B・クラウスの部屋であった。細長い彼の部屋には、寝台と、少しの書物と、これとがあったように覚えている。
初めて見る私に向って、これがいかに便利であるかをクラウスは強調した。しかし、彼が強調するまでもなく、私は忽ちこれが欲しくなっていた。私が欲しくなったのは、そうとは気づかなかったものの、何かを考える時、部屋の中をウロウロと歩き廻る私の癖、考えつくと、考えが逃げ出すのを恐れて、ソワソワとメモをとる私の癖、少しでも気にかかる点に出会うと、あの本、この本と、それを本気で読むというのでなく、忙しく開いてみる私の癖・・・そういう癖のある私にとって、これは、恐らくクラウスにとってより便利なものと感じられたのであろう。
・・・欲しくて堪らなかったが、それどころでない戦争の日々が続き、戦争後のドサクサの最中にクラウスは死んでしまった。たまさか、家具屋などに話しても、なかなか判って貰えず・・長い年月が経てしまった。」
その後、四分の一世紀あとに、鈴木寿美子氏がつくってくれることになるのでした。
ちなみにこの清水氏の文は(昭和39年9月)に書かれております。
う~ん。外山氏の月報には、その机について書かれてはいないのですが、
外山氏の文庫の箇所「その評論家は、特別にあつらえて、立ち机をこしらえたと言っていた」とあるので、おそらく清水幾太郎氏が「その評論家」で、まずは間違いなさそうです。
そうは思いませんか。何ともコタツに入りながら、こうして同意をもとめるのは、場違いだと感じつつ。