外山滋比古氏の本を読むと、
こりゃ随筆遍歴じゃないの。と思わずうなるのでした。
まずは、寺田寅彦。
そして、福原麟太郎。
さらに、田中美知太郎。
以上は、「中年記」(みすず書房)「コンポジット氏四十年」(展望社)「少年記」(展望社)を読むと、なるほど、とうなずいてしまいます。ちょっと、列挙してゆきましょう。
寺田寅彦は、本との出会いでした。
「・・・そして、比喩というのが、こういうときにたいへん有効な方法であるということを、はっきりではないが感じた。後年、たとえを使ってものを考えるようになったのは、寅彦の文章の影響である。学校の図書室にも、寅彦の本はなかったから、ほかのものも読んでみたいという気持ちは、三年後、東京の学生になって、寮の図書室にあった、当時出たばかりの『寺田寅彦全集文学篇』にめぐり会うまではみたすことができなかった。全集を隅から隅まで、味読した。わが知的世界は寅彦によってまず、いと口ができた。」(p182「少年記」)
「中学校三年生のとき、国語の教科書で、寅彦ではなく吉村冬彦の名の『科学者とあたま』という文章を勉強して、知の世界を垣間見た思いがした。目から鱗が落ちる、というか、思考というもののおもしろさを初めて知ったような感動は大きく永く続いた。東京の学生になると早々、寮の図書室にあったそのころ出たばかりの『寺田寅彦全集』の文学篇全巻を読み切った。ひところ物理学をやりたいと思うほどに耽溺した。」(p23『中年記』)
つぎは、福原麟太郎との出会い。
「戦争末期、昭和19年10月に、東京文理科大学英語学英文学科の学生になった。同期10名。その頃、どこの大学でも、英文科の学生はいなかった。いれば病気で軍隊へ行けない学生である。だいいち、英文科を開いている私立の大学がほとんどなかった。・・・・
入学して早々、学生控室に掲示が出た。主任教授福原麟太郎先生の名で、新入学生と個人インタビューを行なうとあって、時間が指定してある。・・」(p20『中年記』)
「英語青年」の編集をしている頃には、
「なんとか校了にすると・・・それを三部もって、その日のうちに、福原麟太郎主幹のお宅へ参上する。『よくできました』新しく出た雑誌にひと通り目を通して、先生がおっしゃる。奥さまが上等なお菓子とお茶を出して下さる。用は二十分もあれば済むのだが、こちらは帰らない。先生は、四方山の話をポツリポツリと話される。・・・毎回のようにこういう秘話がきけるのだから、つい長尻になる。そのころ先生は『売れっ子』になっておられて原稿執筆は大多忙であったはずであるが、一度だって、忙しそうな顔をされたことがない。おいとましようとすると、『まあ、もうすこしいいじゃないですか』とおっしゃる。ときには勉強についての話になることもあるが、一度も勉強しなさい、と言われたことがない。ただ、雑誌の編集を始めてから数年したころである。家内が先生のところから帰ってきて、先生が『外山くんは、雑誌ばかり作って忙しそうだ。ぼくが頼んだのだから、僕がいけないのだが、自分でものを書かないといけない』と言われたそうである。・・・これはずっとあと、こちらが編集を辞めて数年たった頃だったと思う。富原芳彰さんが『われわれ二人は、『英語青年』大学の出身だから・・』と言ったことがある。たしかにそうだ。先生ひとり、学生ひとりというたいへんぜいたくな大学である。一時間、二時間、先生のお話をきいていると、だんだん勉強しなくてはいけない、あるいは、自分だって、なにかできるに違いないという気持ちがしてくる。先生は、ほめ上手だから、こちらはほめられているとは知らずに、いい気になるのである。夕方、くれなずむころ、先生邸からの細い道を歩いて帰ると、きのうよりいくらかは人間が上等になっているような気持ちがする。『英語青年』大学はありがたかった。十二年もそこで学ぶことができたのはわが人生の幸福である。」(p65~68『中年記』)
田中美知太郎氏との出会いは
「根本(外山滋比古氏のこと)はBR大学のときに、先生からラテン語を習った。選択科目で、各科のもの好きな学生が数名出るだけのクラスがある。先生は哲学者だったが、そちらの講義はもたされない、多分、時間講師であった。出席した学生は、先生に同情していたのかもしれない。履修者がすくなくなれば、まずいことになるおそれがある。そんな学生でしかなかった根本を先生は、戦後、京都大学の哲学第一講座の教授となられてからも、折にふれてことばをかけられた。」(p134『コンポジット氏四十年』)
ここではT先生として出てくるのでした。
ちなみに、田中美知太郎対談集「プラトンに学ぶ」(日本文芸社)の略歴によりますと
上智大学予科を経て本科を中退し、1923年東京帝国大学文学部哲学科選科入学。
帰京後二年浪人ののち、28年法政大学文学部講師、30年東京文理科大学(現筑波大)講師を兼任。以降、戦後京大に迎えられるまで、今でいう非常勤講師時代が19年続く。・・
とあります。そう、この対談集に外山氏も入っております。
こりゃ随筆遍歴じゃないの。と思わずうなるのでした。
まずは、寺田寅彦。
そして、福原麟太郎。
さらに、田中美知太郎。
以上は、「中年記」(みすず書房)「コンポジット氏四十年」(展望社)「少年記」(展望社)を読むと、なるほど、とうなずいてしまいます。ちょっと、列挙してゆきましょう。
寺田寅彦は、本との出会いでした。
「・・・そして、比喩というのが、こういうときにたいへん有効な方法であるということを、はっきりではないが感じた。後年、たとえを使ってものを考えるようになったのは、寅彦の文章の影響である。学校の図書室にも、寅彦の本はなかったから、ほかのものも読んでみたいという気持ちは、三年後、東京の学生になって、寮の図書室にあった、当時出たばかりの『寺田寅彦全集文学篇』にめぐり会うまではみたすことができなかった。全集を隅から隅まで、味読した。わが知的世界は寅彦によってまず、いと口ができた。」(p182「少年記」)
「中学校三年生のとき、国語の教科書で、寅彦ではなく吉村冬彦の名の『科学者とあたま』という文章を勉強して、知の世界を垣間見た思いがした。目から鱗が落ちる、というか、思考というもののおもしろさを初めて知ったような感動は大きく永く続いた。東京の学生になると早々、寮の図書室にあったそのころ出たばかりの『寺田寅彦全集』の文学篇全巻を読み切った。ひところ物理学をやりたいと思うほどに耽溺した。」(p23『中年記』)
つぎは、福原麟太郎との出会い。
「戦争末期、昭和19年10月に、東京文理科大学英語学英文学科の学生になった。同期10名。その頃、どこの大学でも、英文科の学生はいなかった。いれば病気で軍隊へ行けない学生である。だいいち、英文科を開いている私立の大学がほとんどなかった。・・・・
入学して早々、学生控室に掲示が出た。主任教授福原麟太郎先生の名で、新入学生と個人インタビューを行なうとあって、時間が指定してある。・・」(p20『中年記』)
「英語青年」の編集をしている頃には、
「なんとか校了にすると・・・それを三部もって、その日のうちに、福原麟太郎主幹のお宅へ参上する。『よくできました』新しく出た雑誌にひと通り目を通して、先生がおっしゃる。奥さまが上等なお菓子とお茶を出して下さる。用は二十分もあれば済むのだが、こちらは帰らない。先生は、四方山の話をポツリポツリと話される。・・・毎回のようにこういう秘話がきけるのだから、つい長尻になる。そのころ先生は『売れっ子』になっておられて原稿執筆は大多忙であったはずであるが、一度だって、忙しそうな顔をされたことがない。おいとましようとすると、『まあ、もうすこしいいじゃないですか』とおっしゃる。ときには勉強についての話になることもあるが、一度も勉強しなさい、と言われたことがない。ただ、雑誌の編集を始めてから数年したころである。家内が先生のところから帰ってきて、先生が『外山くんは、雑誌ばかり作って忙しそうだ。ぼくが頼んだのだから、僕がいけないのだが、自分でものを書かないといけない』と言われたそうである。・・・これはずっとあと、こちらが編集を辞めて数年たった頃だったと思う。富原芳彰さんが『われわれ二人は、『英語青年』大学の出身だから・・』と言ったことがある。たしかにそうだ。先生ひとり、学生ひとりというたいへんぜいたくな大学である。一時間、二時間、先生のお話をきいていると、だんだん勉強しなくてはいけない、あるいは、自分だって、なにかできるに違いないという気持ちがしてくる。先生は、ほめ上手だから、こちらはほめられているとは知らずに、いい気になるのである。夕方、くれなずむころ、先生邸からの細い道を歩いて帰ると、きのうよりいくらかは人間が上等になっているような気持ちがする。『英語青年』大学はありがたかった。十二年もそこで学ぶことができたのはわが人生の幸福である。」(p65~68『中年記』)
田中美知太郎氏との出会いは
「根本(外山滋比古氏のこと)はBR大学のときに、先生からラテン語を習った。選択科目で、各科のもの好きな学生が数名出るだけのクラスがある。先生は哲学者だったが、そちらの講義はもたされない、多分、時間講師であった。出席した学生は、先生に同情していたのかもしれない。履修者がすくなくなれば、まずいことになるおそれがある。そんな学生でしかなかった根本を先生は、戦後、京都大学の哲学第一講座の教授となられてからも、折にふれてことばをかけられた。」(p134『コンポジット氏四十年』)
ここではT先生として出てくるのでした。
ちなみに、田中美知太郎対談集「プラトンに学ぶ」(日本文芸社)の略歴によりますと
上智大学予科を経て本科を中退し、1923年東京帝国大学文学部哲学科選科入学。
帰京後二年浪人ののち、28年法政大学文学部講師、30年東京文理科大学(現筑波大)講師を兼任。以降、戦後京大に迎えられるまで、今でいう非常勤講師時代が19年続く。・・
とあります。そう、この対談集に外山氏も入っております。