和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

漱石と滋比古。

2010-01-17 | 他生の縁
外山滋比古著「中年記」(みすず書房)を読みました。
はじまりは、昭和15年秋。
「・・・英語志望にケチをつけることばの前に、先生は、『お前がねえー高等師範を受けるとはねえ。本当に教師になりたいのか、お前が、高等師範とはねえ。おどろいた』と嫌味をひとくさりやったのである。・・・・よし、それなら、受けて合格して、ハナを明かしてやろうというイタズラ心が頭をもちあげた。あんなに言わなければ、高等師範も、英語も志望しなかったかもしれない。」

なにやら、「坊っちゃん」のセリフかとおもうじゃありませんか。

そういえば、
「文章は一日になるものでないことはうすうす感じていたが、とくに勉強することもなく、ゲラをまっ赤にして印刷から文句を言われることをどれくらい続けたか、いやなことだし、記憶にもない。ただ、心をこめて読んだ本の文体がいつのまにか、うつるらしいことは、漱石を読んでいたときに書いた『葦のずいから』が、「週刊朝日」のブックレビューで、「どこか漱石を思わせる文章」と書かれて、気がついた。」(p137)

という箇所もでてきたりするのです。
では、この本で、登場する漱石について以下引用。
まずは、ここから、

「東京の学生になると早々、寮の図書室にあったそのころ出たばかりの『寺田寅彦全集』の文学篇全巻を読み切った。ひところ物理学をやりたいと思うほどに耽溺した。」(p23)

「夏目漱石は中学生のときからよく読んだが、『文学論』は大学へ入ってから読む。その構想と思考の方法にはひどく感心した。おそらくこの本が出たとき、世界中でこれに匹敵する文学概論はひとつもなかっただろう。そういうことがわかるのに、その後二十年くらいはかかった。世の漱石研究家たちは、いまなお、この『文学論』を扱いかねているらしく見える。」(p24)

うん。外山滋比古氏による漱石「文学論」講義という本があってもよさそうなものです。

「印刷文化によって、文字以外、読者は作者とのつながりをほとんど失うことになるが、外国人読者にとって、作者との絆ははじめから存在しない。それだけ純粋読者でありうるわけだが、文献学的に言えば、欠陥読者にすぎなくなる。日本人として、純粋読者たりうるか、欠損読者になり下がるか、正念場であるが、明治以来、この点で悩んだ日本人はほとんどなかったのは不思議で、夏目漱石が唯一の例外である。」(p98)

「夏目漱石はもっとも高い倫理観をもった文学者であるが、外国の文献から、そっと借りてきたところが、『文学論』などにはいくつも見当たるのである。」(p163)

う~ん。漱石と外山滋比古。
コメント
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