和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

さりげない。

2010-01-14 | 短文紹介
外山滋比古氏の文に、さりげなくも、貴重な数行があらわれる瞬間があります。それをどう言えばよいのやら。たとえば古典の「徒然草」をあなたなら、どう数行で表現するでしょう。そう言ってみて、やおら外山氏の数行を引用するわけです。

「『徒然草』はわが国屈指のモラルの書である。最大の古典だという人もある。趣味のよさというものをこれほどはっきりあらわしている作品はないとしてよいであろう。」
これは「大人の言葉づかい」(「中経の文庫」)にある短文「自慢話は人をしらけさせる」の始まりの3行。さっと一瞬で古典を切ってみせたような。あっという間の出来事として、次の行へと読み進んでしまうのですが、ごたごたと説明などせずに次へ文は進むのです。



それでは、夏目漱石を、外山氏はどう取り上げるのか?

外山滋比古著「ユーモアのレッスン」(中公新書)から、それらしき箇所を引用。


「夏目漱石は、いまや古典的作家である。その人生探求はいまなおつよい影響力を失っていない。一般に真面目な作家であると見なされているが、文学的活動のはじまりは、ユーモアと笑いをねらった創作であったのは、おもしろい。ただ、深刻な思想、人生観をよろこぶわが国の文学批評にとっては、そうした軽い作品が尊重されるわけもなく、いわば放置されてきている。ただ、一般の読者にとっては、ユーモア作品の漱石の方が身近に感じられるのもまた事実である。漱石における笑いは、不当に低く評価されているといわなくてはならない。そのユーモア作品は、処女作としてよい『吾輩は猫である』と、『坊つちやん』である。」(p147)

このあとに「吾輩は猫である」の一部を引用してから

「えんえんと話し続ける調子は、落語家のある種の語り口をかすかに連想させる。そういえば、漱石は落語が好きで、よくききに行ったそうである。『吾輩は猫である』は知的な読者へ向けての落語であったと考えることもできる。冗舌のスタイルである。おもしろい見方で意表をつく言い方が新鮮である。・・・」

「『坊つちやん』は、『吾輩は猫である』に比べて、いっそう諧謔性が高い。はっきりユーモア小説だといっても差支えない。しかし、『猫』に比べて、知的なウィットは影をひそめて、むしろ、しみじみとしたぺイソスのような味わいがつよくなっているのが注目される。ユーモアとしては深化していると見てよい。人物の描き方にしても、下女の清(きよ)は主人公坊っちゃんを愛して感動的である。」(p148~149)


ただ。拍手。
コメント
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