和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

昨日も炬燵。

2010-01-08 | 短文紹介
何とも、炬燵(こたつ)にはいると、出にくいですね。
はいらなければいい。うん。しかし。
炬燵で本をひろげている。ちょっと気になる言葉がある。
付箋を貼りたくなる。炬燵のまわりにはない。
う~ん。どうしよう。
線を引きたくなる、炬燵のまわりにはない。
う~ん。そこで、本を読むのをやめて、しばし考える。
もちろん。本の内容を考えるのじゃなくて、
炬燵から出ようかどうか、考える(笑)。

昨日は外山滋比古著「忘却の整理学」(筑摩書房)をすこしひらきながら、
そのサイクルにはまっておりました。
まず、付箋を貼りたかった箇所は「記憶が根づく」というところでした

「単に知識の量をふやしたいのであれば、忘れたりしていては不都合であるから、忘却はいつとはなしに記憶の目の敵にされてしまう。記憶がしっかり根づくには、自分にとって価値あるものになるよう、いったん、あるいは何度となく忘却の波に洗われることが必要である、ということに気づく人はまれであった。少なくとも、忘却を弁護する教師はいなかった。そのために、知識はその力を失い、みずからの頭の中ふかく繰り込まれることなく、いつまでも知識として蓄積される。」(p66~67)

「知識と思考の量は反比例するというのは検討に値する命題である。」(p67)

「思考のとりえはとにかく疾いこと。一瞬、千里を走ることができる。三分の黙考が、本にしたら十ページ、二十ページになることも不可能ではない。それこそ休み、休み、忘れ、忘れて継続的に思考を積み重ねる。」


ああ、こんな箇所もありました。

「人間は、電灯のおかげで夜ふかしになってしまった。夜おそくまで勉強したり、仕事をしたりすることを何とも思わなくなったどころか、むしろ深夜の仕事、勉強を、たいそうえらいことのように考える傾向がつよい。かつては作家なども、夕方から動き出し、夜中まで、ときに、夜を徹して仕事をするのを誇りにしていたらしい。菊池寛が『夜には一行だって書こうと思わない』と宣言したとき、世の知識人はつよい衝撃を受けた。」(p94)


この「えらいことのように考える傾向がつよい」には、まいってしまいました。
と昨日の夜は、炬燵に足を飲み込まれたまま、本も先を読みすすむわけでもなくボウッとしてすぎたような按配でした。



ああ、そうそう。
外山滋比古氏の著作ですが、
「葦のずいから」は、文庫「新学問のすすめ」となっておりました。
「読み書き話す」は、「ことばのある暮し」
(これ、まえにも書き込んだのにすっかり忘れてしまっておりました)。
「中年閑居して・・」は、文庫「ライフワークの思想」となっているようです。


とりあえず、「忘却の整理学」を読んでいる途中なのですが、
「忘却の力」も外山氏が出しておられるので、ネット古本屋へと注文しておきました。
コメント
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