外山滋比古著「コンポジット氏四十年」(展望社)に、
「根本は正統な師範教育を受けたから古典的教師像をいつしか胸にいだいていた。」(p61)という箇所がありました。
そういえば、と今日の朝思い浮かんだのは、河上徹太郎著「史伝と文芸批評」(作品社)にある文「私の中の日本人――福原麟太郎」でした。
そこから引用。
「福原氏の人柄の美しさは何といへばよいか、専門が英語だから英語学者又は英文学者といふのだろうが、もうここまで行くと英語でもなければ日本語でもなく、ただコトバといふものであつて、しかもコトバ即ち人格といふ所まで行きついた人である。
氏のコトバ観は一例としてその著書『文学と文明』から引用して見よう。
『つまり日本文学はこうして海外からの上げ潮にも直接に洗われて、成長したのであった。一葉が西洋文学を学ぶ青年たちに励まされて自分の文体を発見したことは象徴的であった。どこの国の文明にも時期がくればこうして一時に花が咲きコトバが繁る。
コトバというものを言の葉と書くのは西洋文学でも同じである。コトバが表現力を持つということが文学には根本的に必要なのだ。・・・そこで、吉田健一氏が言うように、明治の文学作品など一つも無くてもかまわない。コトバを残して置いてくれさえすれば、ということにもなる。必要なのはコトバとその表現力コトダマである』
ニイチェがフィロローゲンといふ言葉を使ふとかういふ意味になる。福原氏は英語の言葉に首をつき込んで頭を上げて見るとそこは国語の世界であつた。まがふことのない日本語の国であつた。コトバの世界の純潔をつきつめた『国際的』な探求から民族の雅を発見するとは、何と『日本的』なことであろう。それはもはや語学者といつた専門家ではなく、一人の『国士』の誕生である。私が大人といつたのはその意味で、その点で氏は『日本人』なのである。」(p179~181)
もうちょっと引用させてください。
「私は福原さんのことを書いてゐると、氏とかさんとかいふよりも、今まで時に書いて来たやうに、つい先生といふ敬称をつけたくなる。これは私が氏の・・・祝賀会の時のスピーチでいつたことだが、私がつい先生と呼びたくなる人が今まで三人ゐた。それは菊池寛、辰野隆、福原麟太郎の三氏である。三人とも文壇閥、学歴の上で私の先生ではない。しかもそれが口をついて出て来るのは、いふだけ野暮だが、親しみの加はつた尊敬の念からであらう。そしてその祝賀会での印象だが、福原先生が大勢の昔の弟子に囲まれて敬慕されてゐる情景は世にも美しいものであつた。岡倉先生の厳しさの中にもこんな温かさがあつたのだろう。もうこんな先生は今の時勢では出ないかも知れない。芝居を作るのが作者や役者ではなく観衆であるやうに、先生を作るのはお弟子である。今の学生にはそんな能力を失はれてゐるのである。さういへば吉田松陰が良師であつたのは、彼の資質もさることながら、久坂や高杉、殊に入江久一、品川弥二郎が良い弟子だつたからだともいへよう。」(p183~184)
ああ、また引用だけになりました(笑)。
「根本は正統な師範教育を受けたから古典的教師像をいつしか胸にいだいていた。」(p61)という箇所がありました。
そういえば、と今日の朝思い浮かんだのは、河上徹太郎著「史伝と文芸批評」(作品社)にある文「私の中の日本人――福原麟太郎」でした。
そこから引用。
「福原氏の人柄の美しさは何といへばよいか、専門が英語だから英語学者又は英文学者といふのだろうが、もうここまで行くと英語でもなければ日本語でもなく、ただコトバといふものであつて、しかもコトバ即ち人格といふ所まで行きついた人である。
氏のコトバ観は一例としてその著書『文学と文明』から引用して見よう。
『つまり日本文学はこうして海外からの上げ潮にも直接に洗われて、成長したのであった。一葉が西洋文学を学ぶ青年たちに励まされて自分の文体を発見したことは象徴的であった。どこの国の文明にも時期がくればこうして一時に花が咲きコトバが繁る。
コトバというものを言の葉と書くのは西洋文学でも同じである。コトバが表現力を持つということが文学には根本的に必要なのだ。・・・そこで、吉田健一氏が言うように、明治の文学作品など一つも無くてもかまわない。コトバを残して置いてくれさえすれば、ということにもなる。必要なのはコトバとその表現力コトダマである』
ニイチェがフィロローゲンといふ言葉を使ふとかういふ意味になる。福原氏は英語の言葉に首をつき込んで頭を上げて見るとそこは国語の世界であつた。まがふことのない日本語の国であつた。コトバの世界の純潔をつきつめた『国際的』な探求から民族の雅を発見するとは、何と『日本的』なことであろう。それはもはや語学者といつた専門家ではなく、一人の『国士』の誕生である。私が大人といつたのはその意味で、その点で氏は『日本人』なのである。」(p179~181)
もうちょっと引用させてください。
「私は福原さんのことを書いてゐると、氏とかさんとかいふよりも、今まで時に書いて来たやうに、つい先生といふ敬称をつけたくなる。これは私が氏の・・・祝賀会の時のスピーチでいつたことだが、私がつい先生と呼びたくなる人が今まで三人ゐた。それは菊池寛、辰野隆、福原麟太郎の三氏である。三人とも文壇閥、学歴の上で私の先生ではない。しかもそれが口をついて出て来るのは、いふだけ野暮だが、親しみの加はつた尊敬の念からであらう。そしてその祝賀会での印象だが、福原先生が大勢の昔の弟子に囲まれて敬慕されてゐる情景は世にも美しいものであつた。岡倉先生の厳しさの中にもこんな温かさがあつたのだろう。もうこんな先生は今の時勢では出ないかも知れない。芝居を作るのが作者や役者ではなく観衆であるやうに、先生を作るのはお弟子である。今の学生にはそんな能力を失はれてゐるのである。さういへば吉田松陰が良師であつたのは、彼の資質もさることながら、久坂や高杉、殊に入江久一、品川弥二郎が良い弟子だつたからだともいへよう。」(p183~184)
ああ、また引用だけになりました(笑)。