今日は1月11日で成人式だそうです。
ちょうど、今日成人の日に読んだ本の紹介。
外山滋比古著「人に聞けない 大人の言葉づかい」(中経の文庫)
この文庫は、2005年に刊行された「大人の日本語」を改題のうえ、再編集したものだ。とあります。ちょうど、成人式にふさわしい読み物でした。
ということで紹介。
社会へ出てからの心構え。
そう、大人が教えてくれない、ちょっとしたことを懇切丁寧に書いてくれております。別に読みたくない人は読まなくてもいいのです。本はちゃんと黙って待ってくれております。ですが、現在は、そういう静かな本の在り処を探そうとすると、見つけ出せない、ちょっとやっかいな時代であるような気がします。
そういう本を紹介できる嬉しさ。
たとえば、最初にこうあります。
「・・電話でお礼をいうのは、いまでは当たり前になっていて、すこしもおかしくないが、すこし先輩の人だと、なんだ、電話なんかで・・・と思う。ことに男は保守的だから、電話のお礼をよろこばない。
はがきなら電話より、ましであるのはたしかだが、もともとはがきは私信ではない。あけっぴろげで、だれでも見ることができる。いくらかでも個人的なことは、はがきに書いてはいけないことになっている。はがきは信書ではないから、信書の秘密というのは手紙でしか認められない。はがきには及ばない。
それらを家庭で教えなくなった。もちろん学校では教えてくれない。勤めても教えてくれる人がいない。それで、はがきも手紙だと思っている人が多い。」(p15)
次のページには、そのはがきのことが出てきます。
「昔の人はよく、手紙一本ろくに書けない、といったものだが、いまははがき一本まっとうに書けたら、社会人の教養は身についているとしてよいだろう。それだけに、もらった人が読みかえすようなはがきが書けたらりっぱな人間だ。」(p16)
「あいさつは人間尊重の精神のあらわれである。相手のことを思いやる心のあるのが大人である。あいさつのできないのはこども。こどもなら愛嬌だが、いい年をした人間だと笑止の沙汰になる。
これは些細なことだが、返事をもらうつもりの手紙、はがきであるのに、自分の住所の郵便番号を書かない人がいる。返事を書く人は郵便番号帳で番号をさがさなくてはならない。返事をする人は、やれやれと思う。それを予測できないのは想像力の欠如である。自分の郵便番号をつけない人は、いつもつけない。そういう手紙には、必要な返事でも、出さないのだ、といっている人がいる。その気持ちがよくわかる。」(p80)
敬語についても、書かれておりました。その最後の箇所。
「こどもは敬語を必要としない。そして敬語が使えないのは、まだ、心をもってほかの人とつき合うという段階に達していないからである。・・・
戦後、敬語がほとんど半壊の状態になったのは、人と人とのつき合いが、殺伐、無味、利益の結びつきになったことの象徴である。
それに対して、いちはやく敬語の再興を求めたのは企業に働く人たちであった。仕事を円滑にすすめるためには、ただのコミュニケーションの技術だけでなく、相手と友好の関係におくことが大切であるのを、実生活で気づいたからである。ことばの心理として敬語はもっとも洗練された様式である。企業に就職した若い人が、ひそかに買いもとめるのは敬語の使い方を教える本だといわれる。
家庭や学校、ことに、家庭は、その話をきいて恥じなくてはならない。」(p160~161)
ことばに口やかましい先生が、ここにはおります。
生徒ならば、敬遠してしまいそうな、先生がここにおります。
成人ならば、有り難いと思って読みたくなる教えが、ここにあります。
ちょうど、今日は成人式でした。
ちょうど、今日成人の日に読んだ本の紹介。
外山滋比古著「人に聞けない 大人の言葉づかい」(中経の文庫)
この文庫は、2005年に刊行された「大人の日本語」を改題のうえ、再編集したものだ。とあります。ちょうど、成人式にふさわしい読み物でした。
ということで紹介。
社会へ出てからの心構え。
そう、大人が教えてくれない、ちょっとしたことを懇切丁寧に書いてくれております。別に読みたくない人は読まなくてもいいのです。本はちゃんと黙って待ってくれております。ですが、現在は、そういう静かな本の在り処を探そうとすると、見つけ出せない、ちょっとやっかいな時代であるような気がします。
そういう本を紹介できる嬉しさ。
たとえば、最初にこうあります。
「・・電話でお礼をいうのは、いまでは当たり前になっていて、すこしもおかしくないが、すこし先輩の人だと、なんだ、電話なんかで・・・と思う。ことに男は保守的だから、電話のお礼をよろこばない。
はがきなら電話より、ましであるのはたしかだが、もともとはがきは私信ではない。あけっぴろげで、だれでも見ることができる。いくらかでも個人的なことは、はがきに書いてはいけないことになっている。はがきは信書ではないから、信書の秘密というのは手紙でしか認められない。はがきには及ばない。
それらを家庭で教えなくなった。もちろん学校では教えてくれない。勤めても教えてくれる人がいない。それで、はがきも手紙だと思っている人が多い。」(p15)
次のページには、そのはがきのことが出てきます。
「昔の人はよく、手紙一本ろくに書けない、といったものだが、いまははがき一本まっとうに書けたら、社会人の教養は身についているとしてよいだろう。それだけに、もらった人が読みかえすようなはがきが書けたらりっぱな人間だ。」(p16)
「あいさつは人間尊重の精神のあらわれである。相手のことを思いやる心のあるのが大人である。あいさつのできないのはこども。こどもなら愛嬌だが、いい年をした人間だと笑止の沙汰になる。
これは些細なことだが、返事をもらうつもりの手紙、はがきであるのに、自分の住所の郵便番号を書かない人がいる。返事を書く人は郵便番号帳で番号をさがさなくてはならない。返事をする人は、やれやれと思う。それを予測できないのは想像力の欠如である。自分の郵便番号をつけない人は、いつもつけない。そういう手紙には、必要な返事でも、出さないのだ、といっている人がいる。その気持ちがよくわかる。」(p80)
敬語についても、書かれておりました。その最後の箇所。
「こどもは敬語を必要としない。そして敬語が使えないのは、まだ、心をもってほかの人とつき合うという段階に達していないからである。・・・
戦後、敬語がほとんど半壊の状態になったのは、人と人とのつき合いが、殺伐、無味、利益の結びつきになったことの象徴である。
それに対して、いちはやく敬語の再興を求めたのは企業に働く人たちであった。仕事を円滑にすすめるためには、ただのコミュニケーションの技術だけでなく、相手と友好の関係におくことが大切であるのを、実生活で気づいたからである。ことばの心理として敬語はもっとも洗練された様式である。企業に就職した若い人が、ひそかに買いもとめるのは敬語の使い方を教える本だといわれる。
家庭や学校、ことに、家庭は、その話をきいて恥じなくてはならない。」(p160~161)
ことばに口やかましい先生が、ここにはおります。
生徒ならば、敬遠してしまいそうな、先生がここにおります。
成人ならば、有り難いと思って読みたくなる教えが、ここにあります。
ちょうど、今日は成人式でした。