雑誌WILL2月号での
「石井英夫の今月の一冊」は
門田隆将著「慟哭の海峡」(角川書店)を
とりあげておりました。その書評の最後は、
「『福島原発・吉田調書』など著者の
ノンフィクション作品は数多いが、これは
おそらく渾身の一作だろう。」
と締め括っておりました。
そうかなあと思いながらも、
改めて、あらたな視点で、
その「慟哭の海峡」と
筒井清著「西條八十」(中公叢書)とを
今回は、むすんでみたくなります。
西條八十は、関東大震災を経験しております。
「大正11年2月、八十はかつて住んだことのある
柏木町に転居した。そして、大正12年9月1日を
迎える。関東大震災の日である。・・・・
大混乱の中容易に前へは進めず結局、夜を上野の
山で過ごすこととなった。深夜、疲労と不安と
飢えで、人々は化石のように押しだまってしゃがみ、
横たわっていた。しゃがんでいた八十の隣の少年が
ポケットからハーモニカをとり出し吹き出そうと
した。八十は一瞬、周囲の人々が怒り出すのでは
ないかと案じ、止めようとしたが少年は吹きはじめた。
『それは誰も知る平凡なメロディーであった。
だが吹きかたはなかなか巧者であった。と、次いで
起った現象。――これが意外だった。ハーモニカの
メロディーが晩夏の夜の風にはこばれて美しく流れ
出すと、群集はわたしの危惧したように怒らなかった。
おとなしく、ジッとそれに耳を澄ませている如くであった。』
人々は、ささやき出し、あくびをし、手足をのばし、
ある者は立ち上がって塵を払ったり歩き廻ったりした。
『山の群集はこの一管のハーモニカの音によって、
慰められ、心をやわらげられ、くつろぎ、
絶望の裡(なか)に一点の希望を与えられた。
少年の気まぐれな吹奏は、ほんの短い時間で終り、
山はもとの闇黒の寂寞に還ったが、松の根かたに
腕拱いていたわたしは、このことから、
ある深い啓示を与えられた。』」(「西條八十」p102~103)
「慟哭の海峡」の「はじめに」は
二つの歌詞を引用しております。
ひとつは、『手のひらを太陽に』
二つ目は、『アンパンマン』の歌詞。
どちらも、作詞は漫画家やなせたかし。
その第一章「撃沈」は、太平洋戦争中の
バシー海峡での漂流が語られていきます。
「誰も知らないなら、救助はどこからも来ない。
ずっとのちになって、この『ヒ七一船団』では
玉津丸のほかにも多くが撃沈され、一昼夜の
うちに実に『一万人以上が戦死』するという、
バシー海峡最大の悲劇だったことが明らかになる。
しかし、それを知るのは戦後になってからのことだ。」
(p26~27)
「それから何度、三角波が襲ってきただろうか。
目の前で泣いていた後輩も、特別大きな三角波が
去ったあと、忽然と姿を消した。そればかりではない。
筏の上から、さまざまな指示を与えていた小宮山中尉
の姿も、いつの間にかいなくなっていた。
ちっぽけな人間をあざ笑うかのように、波は次々と
人を呑み込んでいった。・・・・
(そうだ。歌だ。なにか歌を口ずさもう)
中嶋は、挫けそうになる心をなんとかしようと
歌を歌うことを思いうちた。その時、中嶋の
口から出てきたのは、映画『愛染かつら』の
主題歌『旅の夜風』である。・・・・
西條八十作詞、万城目正作曲の『旅の夜風』は、
国民的なヒット曲となった。中嶋の口から
思わず出たこの歌は、たちまち筏の上を
歌声一色に染めた。
『やめろ!女々しい歌はやめろ!』
しかし、大合唱の中で、将校の一人が
そう叫んだ。中嶋には見慣れない少尉である。
・ ・・・」(~p29)
またもどります。
筒井清忠著「西條八十」にある
「旅の夜風」についての印象的な箇所。
「昭和14年5月8日『朝日新聞』夕刊に、
「『愛染かつら』の如きメロディーの甘い抒情的
なものが一般に好まれてゐる』とあるように、
メロドラマの主題歌でもあり、『甘い抒情的な
もの』を好むとされた女性にこの歌は好まれた
ようである。・・・・
自由主義者で当時、権力からの弾圧と戦っていた
河合栄治郎がこの歌を好んで歌っていたことは
著名だが、戦後高度成長期の日本の推進者として
六年にわたって首相をつとめた池田勇人もこの歌
を愛好していたことで有名であった。」(p228~229)
「また、芸能記者で、太陽族映画の命名者でもある
石坂昌三は次のような回想を残している。
『遠縁の人に召集令状が来てね、(神奈川県の)
茅ヶ崎駅のホームで、彼の壮途を送るのに、
〈 天に代わりて不義を討つ・・ 〉とか
〈 敵は幾万ありとても・・・ 〉とかを
見送りの人たちが合唱したら、その人は
『そんなのいいから「旅の夜風」やってくれ』
って叫んだんだそうですよ。みんなが
〈 花も嵐も踏み越えて・・・ 〉って
唱い出したら、隣の見送りの輪も、
そのまた隣もいっせいにその歌に代わっ
ちゃって、ホーム全体が
〈 行くが男の生きる道・・・ 〉って
歌になっちゃったんだって。・・・・・
もしかしたらあの話を聞いたことが・・・」
(p230)
ということで、最後は
漫画家やなせたかし。
PHP文庫「やなせたかし明日をひらく言葉」に、
東日本大震災のことが語られております。
「悪夢のような大震災の後、
ラジオから流れた
『アンパンマンのマーチ』を聞いて
子どもたちが笑顔で大コーラス。
そのニュースを聞いて、
ぼくは本当にうれしかった。」(p90)
その次の文を引用。
「東北が天災に襲われ、
信じられないような大きな被害を受けたとき、
すべての言葉はむなしい。はじめは、そう思った。
・・・ところが大震災から三日後、
あるラジオ番組に
『アンパンマンのマーチを流してください』
というリクエストがあり、さっそく
放送したところ、子どもたちがラジオに
合わせて大コーラスを始めた。
大人たちも涙をこぼして感動した。
それから、ラジオ局は連日、
この歌を流したという。
このニュースを聞いて・・・
すぐに被災地に激励ポスターを送り、
チャリティコンサートも始めた。
震災で大きなショックを受けて
まったく笑わなくなってしまった
子どもが、アンパンマンのポスターを
見て笑い出し、それを見たお母さんが
泣き出したというニュースも届いた。
・・・・」(p91)
ということで、
関東大震災。
太平洋戦争。
東日本大震災。
と、歌の補助線がひけました。
そうすると、
門田隆将さんは、東日本の被災地で取材する間に、
このアンパンマンのマーチが流れる
雰囲気を肌で感じとっていたのだ。
などと、あらぬことを思ったりします。
「石井英夫の今月の一冊」は
門田隆将著「慟哭の海峡」(角川書店)を
とりあげておりました。その書評の最後は、
「『福島原発・吉田調書』など著者の
ノンフィクション作品は数多いが、これは
おそらく渾身の一作だろう。」
と締め括っておりました。
そうかなあと思いながらも、
改めて、あらたな視点で、
その「慟哭の海峡」と
筒井清著「西條八十」(中公叢書)とを
今回は、むすんでみたくなります。
西條八十は、関東大震災を経験しております。
「大正11年2月、八十はかつて住んだことのある
柏木町に転居した。そして、大正12年9月1日を
迎える。関東大震災の日である。・・・・
大混乱の中容易に前へは進めず結局、夜を上野の
山で過ごすこととなった。深夜、疲労と不安と
飢えで、人々は化石のように押しだまってしゃがみ、
横たわっていた。しゃがんでいた八十の隣の少年が
ポケットからハーモニカをとり出し吹き出そうと
した。八十は一瞬、周囲の人々が怒り出すのでは
ないかと案じ、止めようとしたが少年は吹きはじめた。
『それは誰も知る平凡なメロディーであった。
だが吹きかたはなかなか巧者であった。と、次いで
起った現象。――これが意外だった。ハーモニカの
メロディーが晩夏の夜の風にはこばれて美しく流れ
出すと、群集はわたしの危惧したように怒らなかった。
おとなしく、ジッとそれに耳を澄ませている如くであった。』
人々は、ささやき出し、あくびをし、手足をのばし、
ある者は立ち上がって塵を払ったり歩き廻ったりした。
『山の群集はこの一管のハーモニカの音によって、
慰められ、心をやわらげられ、くつろぎ、
絶望の裡(なか)に一点の希望を与えられた。
少年の気まぐれな吹奏は、ほんの短い時間で終り、
山はもとの闇黒の寂寞に還ったが、松の根かたに
腕拱いていたわたしは、このことから、
ある深い啓示を与えられた。』」(「西條八十」p102~103)
「慟哭の海峡」の「はじめに」は
二つの歌詞を引用しております。
ひとつは、『手のひらを太陽に』
二つ目は、『アンパンマン』の歌詞。
どちらも、作詞は漫画家やなせたかし。
その第一章「撃沈」は、太平洋戦争中の
バシー海峡での漂流が語られていきます。
「誰も知らないなら、救助はどこからも来ない。
ずっとのちになって、この『ヒ七一船団』では
玉津丸のほかにも多くが撃沈され、一昼夜の
うちに実に『一万人以上が戦死』するという、
バシー海峡最大の悲劇だったことが明らかになる。
しかし、それを知るのは戦後になってからのことだ。」
(p26~27)
「それから何度、三角波が襲ってきただろうか。
目の前で泣いていた後輩も、特別大きな三角波が
去ったあと、忽然と姿を消した。そればかりではない。
筏の上から、さまざまな指示を与えていた小宮山中尉
の姿も、いつの間にかいなくなっていた。
ちっぽけな人間をあざ笑うかのように、波は次々と
人を呑み込んでいった。・・・・
(そうだ。歌だ。なにか歌を口ずさもう)
中嶋は、挫けそうになる心をなんとかしようと
歌を歌うことを思いうちた。その時、中嶋の
口から出てきたのは、映画『愛染かつら』の
主題歌『旅の夜風』である。・・・・
西條八十作詞、万城目正作曲の『旅の夜風』は、
国民的なヒット曲となった。中嶋の口から
思わず出たこの歌は、たちまち筏の上を
歌声一色に染めた。
『やめろ!女々しい歌はやめろ!』
しかし、大合唱の中で、将校の一人が
そう叫んだ。中嶋には見慣れない少尉である。
・ ・・・」(~p29)
またもどります。
筒井清忠著「西條八十」にある
「旅の夜風」についての印象的な箇所。
「昭和14年5月8日『朝日新聞』夕刊に、
「『愛染かつら』の如きメロディーの甘い抒情的
なものが一般に好まれてゐる』とあるように、
メロドラマの主題歌でもあり、『甘い抒情的な
もの』を好むとされた女性にこの歌は好まれた
ようである。・・・・
自由主義者で当時、権力からの弾圧と戦っていた
河合栄治郎がこの歌を好んで歌っていたことは
著名だが、戦後高度成長期の日本の推進者として
六年にわたって首相をつとめた池田勇人もこの歌
を愛好していたことで有名であった。」(p228~229)
「また、芸能記者で、太陽族映画の命名者でもある
石坂昌三は次のような回想を残している。
『遠縁の人に召集令状が来てね、(神奈川県の)
茅ヶ崎駅のホームで、彼の壮途を送るのに、
〈 天に代わりて不義を討つ・・ 〉とか
〈 敵は幾万ありとても・・・ 〉とかを
見送りの人たちが合唱したら、その人は
『そんなのいいから「旅の夜風」やってくれ』
って叫んだんだそうですよ。みんなが
〈 花も嵐も踏み越えて・・・ 〉って
唱い出したら、隣の見送りの輪も、
そのまた隣もいっせいにその歌に代わっ
ちゃって、ホーム全体が
〈 行くが男の生きる道・・・ 〉って
歌になっちゃったんだって。・・・・・
もしかしたらあの話を聞いたことが・・・」
(p230)
ということで、最後は
漫画家やなせたかし。
PHP文庫「やなせたかし明日をひらく言葉」に、
東日本大震災のことが語られております。
「悪夢のような大震災の後、
ラジオから流れた
『アンパンマンのマーチ』を聞いて
子どもたちが笑顔で大コーラス。
そのニュースを聞いて、
ぼくは本当にうれしかった。」(p90)
その次の文を引用。
「東北が天災に襲われ、
信じられないような大きな被害を受けたとき、
すべての言葉はむなしい。はじめは、そう思った。
・・・ところが大震災から三日後、
あるラジオ番組に
『アンパンマンのマーチを流してください』
というリクエストがあり、さっそく
放送したところ、子どもたちがラジオに
合わせて大コーラスを始めた。
大人たちも涙をこぼして感動した。
それから、ラジオ局は連日、
この歌を流したという。
このニュースを聞いて・・・
すぐに被災地に激励ポスターを送り、
チャリティコンサートも始めた。
震災で大きなショックを受けて
まったく笑わなくなってしまった
子どもが、アンパンマンのポスターを
見て笑い出し、それを見たお母さんが
泣き出したというニュースも届いた。
・・・・」(p91)
ということで、
関東大震災。
太平洋戦争。
東日本大震災。
と、歌の補助線がひけました。
そうすると、
門田隆将さんは、東日本の被災地で取材する間に、
このアンパンマンのマーチが流れる
雰囲気を肌で感じとっていたのだ。
などと、あらぬことを思ったりします。