和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

言葉の勁さ。

2014-12-02 | 前書・後書。
最近は、月刊誌を買っております(笑)。
ということで、「正論」1月号を手にとる。
パラパラめくるだけなのですが、
その書評欄に、松浦光修氏が
小川榮太郎著「最後の勝機(チャンス)」(PHP)
を取り上げておりました。
その書評のはじまりは、というと、
「正論」(平成26年9月号)の小川榮太郎氏の
文を引用して取り上げておりました。

こうして引用されると、その古い雑誌が
気になってあらためて読みたくなります。
本棚をみると、ちょうど9月号だけがある(笑)。
うん。雑誌は、その時に読むとは限りませんね。

さてっと、9月号の小川榮太郎氏の文の題は
「『文藝春秋』の憂鬱 消えゆく大人の常識」

線がひかれてあるので、読んだ形跡はある。
それが、すっかり忘れておりました(笑)。

そのなかで、小川榮太郎氏は、
文藝春秋6月号の「百人の叡智が総結集、
安倍総理の『保守』を問う」をとりあげております
(ちなみに、この文芸春秋は自分の手元になし)。

「・・・読み終へ、ひどい疲れを覚えてゐます。
そもそも、文章を読んで疲れるとはどういふ事か。
難解な文章と格闘した時でなければ、読む意味を
見出せない駄文か、文体や論旨が、私の中の常識と
余りにも懸け離れてゐる時でせう。『文藝春秋』と
いふ雑誌は、永年、大人の常識の居心地の良さで
読ませてきた雑誌だつた筈です。その雑誌が
『百人の叡智』に『保守』を語らせたら、
私を著しく疲れさせた。
私は書込みながら物を読む悪癖があるが、
仕舞ひには、(笑)とか、『バ』とか、
『変』とかで誌面が一杯になつてしまひ、
とても人に見せられない有様になつた、
近頃珍しい事です。『バ』は馬鹿の略、
『変』は精神の変調の略で、我ながら
こんな書込みは下品だと思ふが、手が
勝手に動いてしまふのだから仕方がない。」


うんうん。(笑)とか「バ」とか「変」など
ちょっと、私も使いたくなります。思えば
このブログでも(笑)までは使用頻度が
高かったのですが、私はそこまででした。

さてっと、真ん中は端折って、
小川榮太郎氏の最後の方から引用します。

「翻つて今の『文藝春秋』、――あくまで
私の数へた所によればですが――
百人中、妄言が39人。
しかし、更に根深い問題は、そうでない
人達の言葉の多くが、真つ当でもあり有益でも
ありはしても、吉田茂なら吉田の人間力、
言葉の力に匹敵する勁さを持ち合わせてゐなか
つた事になるとも言へます。要するに、39人の
妄言を、残りの61人の言葉が、爽快さや勁さ、
しぶといユーモア、威厳、逆説、美文、博識、
斬新などの言葉の芸によつて、打破する力を
持つてゐない。だから、通読すると、誌面全体が
妄言によつて領されてゐるやうな印象になつて
しまふ。かつて日本に大人がゐたといふ事は、
かつての日本人には人間的な風圧があつた
といふ事です。我々の時代が、総じて、
それを失つてゐるからこそ、百人中、39人の
妄言に、61人の真つ当な言葉がやられてしまふ
のではないか。
これは戦略で取り戻せる事でも、強い政治や経済で
取り戻せる事でもありません。人間の生き方の問題
であり、端的な人間力の問題だ。ある意味で、
どんな政策論よりも途方に暮れることだが、
本当は、この民族挙つての人間力の低迷こそが、
日本の『保守』が今一番直面し、引き受けなければ
ならない我が国の危機なのではないでせうか。」


うん。ここまで引用したら最後も
引用させてください。


「・・・私が本当に撃たうとしてゐるのは、・・
私自身も含めて、今の日本人全ての人間としての
未成熟そのものなのです。
だから、まづ、人に何かを注文するのではなく、
自分が、今の低さと足らなさと未熟さを引き受ける
事――この引き受けるといふ地点から言葉を発する
事。せめてそれだけの強さと矜持くらゐは持ち続ける
事。私は、文士の端くれに過ぎないのだから、
どんなに理解者が少なくとも、私一個の言葉において
はそれを続けようと思つてゐます。正に、それ以外に
『別段の工夫なし』です。」(~p185)


うん。ここだけを引用してみても、
本文中の「言葉の勁さ」を引用していないので、
分かりにくいでしょうが、
私は、といえば、古雑誌を身近に読みかえせてよかった(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする