梅棹忠夫の今西錦司追悼「ひとつの時代のおわり」。
これを再読。
うん。ここを引用。
「・・・今西は田夫野人のたぐいではまったくなかった。
かれは京都というもっとも都市的な都市のなかで
人間形成をおこなった、まったくの都会人である。
虚飾や見栄にはしることはなく、
率直な人がらではあったが、きわめて礼儀ただしく、
市民感覚にあふれていた。同僚の大学教授などには、
しばしば、市民たちに対して横柄な口のききかたしか
できないひとがいたのをわたしはしっているが、
今西はそういうことがまったくなかった。
かれはうまれながらの自由なる近代的市民だったのである。
人事にかかずらわることなし、というのが、
今西の生きかたであった。たくさんの弟子たちの
個人的な人生には、まったく介入することがなかった。
結婚や就職についても、今西はそれの世話をすることはなかった。
わたしの結婚も、媒酌人は今西だが、
今西の口ききによるものではない。
就職も今西の世話によったのではない。
わたしたちの世代はすべてそうだった。・・・・
わたしたちは、たしかに今西を中心とする
グループを形成していた。それはいわば
今西塾とでもいえる存在であった。
学科をこえ、学部をこえ、ときには大学をこえて、
グループはひろがっていた。
今西は教授でもなかったから、講座も主宰していなかった。
そんな先生についても、学生はなんの得もない。
それでも学生たちはあつまってきた。
その若者たちに対して、今西はなんの恩恵もあたえず、
いわば野ばなしであった。・・・・
今西は情によってチームをひきいるリーダーではなく、
いつでも、そのメンバーたちをつきはなしてみていた。
その関係はきわめてドライであり、
まことにさわやかであった。
わかいメンバーのあいだでは、しばしば
『団結は鉄よりもかたく、人情は紙よりもうすし』
ということわざが流行した。
・・・わたしは永年の交際のなかで、
今西がひとを面罵するのをみたことがない。
また、わたしは皮肉をいわれたことがない。
面罵や皮肉はひとの心をきずつけるものである。
批判すべき行動に対しては、
あとからピシッと注意されるのであるが、
いつもまことにあと味のさわやかなものであった。
なにをいわれても、今西にはなにについても
利己的なところがなく、私心がなかった。
それがわかっているから、安心してしたがうことができた。」
うん。今西塾のことわざ。
『団結は鉄よりもかたく、人情は紙よりもうすし』。
こんなことわざが通用する世界があった。
追悼文のさいごは、こうなっておりました。
「わたしが師とあおいだ先学はすくなくない。
桑原武夫、西堀栄三郎、宮地伝三郎、貝塚茂樹、湯川秀樹
の人たちである。・・・・
みんないなくなってしまった。・・・
ひとつの時代がおわったのである。」
ちなみに、梅棹忠夫が「書けない」のはというと、
梅棹忠夫編「追悼の司馬遼太郎」に、こんな箇所。
梅棹】・・私は彼(司馬)の追悼文を書こうと
思っているのですが、書けないのですよ。
・・・ひとつはね、こういうことがあったんです。
今西錦司先生が92歳で亡くなったとき、
その追悼文を『中央公論』に書いたら、
司馬さんからすぐ手紙が来て、
『これぞまことの文学』というほめ言葉で
激賞してもらった。そういうことがあった
・・・ですが、書けない。
これを再読。
うん。ここを引用。
「・・・今西は田夫野人のたぐいではまったくなかった。
かれは京都というもっとも都市的な都市のなかで
人間形成をおこなった、まったくの都会人である。
虚飾や見栄にはしることはなく、
率直な人がらではあったが、きわめて礼儀ただしく、
市民感覚にあふれていた。同僚の大学教授などには、
しばしば、市民たちに対して横柄な口のききかたしか
できないひとがいたのをわたしはしっているが、
今西はそういうことがまったくなかった。
かれはうまれながらの自由なる近代的市民だったのである。
人事にかかずらわることなし、というのが、
今西の生きかたであった。たくさんの弟子たちの
個人的な人生には、まったく介入することがなかった。
結婚や就職についても、今西はそれの世話をすることはなかった。
わたしの結婚も、媒酌人は今西だが、
今西の口ききによるものではない。
就職も今西の世話によったのではない。
わたしたちの世代はすべてそうだった。・・・・
わたしたちは、たしかに今西を中心とする
グループを形成していた。それはいわば
今西塾とでもいえる存在であった。
学科をこえ、学部をこえ、ときには大学をこえて、
グループはひろがっていた。
今西は教授でもなかったから、講座も主宰していなかった。
そんな先生についても、学生はなんの得もない。
それでも学生たちはあつまってきた。
その若者たちに対して、今西はなんの恩恵もあたえず、
いわば野ばなしであった。・・・・
今西は情によってチームをひきいるリーダーではなく、
いつでも、そのメンバーたちをつきはなしてみていた。
その関係はきわめてドライであり、
まことにさわやかであった。
わかいメンバーのあいだでは、しばしば
『団結は鉄よりもかたく、人情は紙よりもうすし』
ということわざが流行した。
・・・わたしは永年の交際のなかで、
今西がひとを面罵するのをみたことがない。
また、わたしは皮肉をいわれたことがない。
面罵や皮肉はひとの心をきずつけるものである。
批判すべき行動に対しては、
あとからピシッと注意されるのであるが、
いつもまことにあと味のさわやかなものであった。
なにをいわれても、今西にはなにについても
利己的なところがなく、私心がなかった。
それがわかっているから、安心してしたがうことができた。」
うん。今西塾のことわざ。
『団結は鉄よりもかたく、人情は紙よりもうすし』。
こんなことわざが通用する世界があった。
追悼文のさいごは、こうなっておりました。
「わたしが師とあおいだ先学はすくなくない。
桑原武夫、西堀栄三郎、宮地伝三郎、貝塚茂樹、湯川秀樹
の人たちである。・・・・
みんないなくなってしまった。・・・
ひとつの時代がおわったのである。」
ちなみに、梅棹忠夫が「書けない」のはというと、
梅棹忠夫編「追悼の司馬遼太郎」に、こんな箇所。
梅棹】・・私は彼(司馬)の追悼文を書こうと
思っているのですが、書けないのですよ。
・・・ひとつはね、こういうことがあったんです。
今西錦司先生が92歳で亡くなったとき、
その追悼文を『中央公論』に書いたら、
司馬さんからすぐ手紙が来て、
『これぞまことの文学』というほめ言葉で
激賞してもらった。そういうことがあった
・・・ですが、書けない。