今日は、親戚筋の新盆に呼ばれる。
日蓮宗。御経本を持参して、
「開経偈」「妙法蓮華経法方便品第二」
「妙法蓮華経如来壽量品第一六」などを
お坊さんに声にあわせての読経。
はい。あとは昼間からビールに日本酒を
飲みながらの歓談。
それが午後3時前に終り。送ってもらって
帰ってきたところです。
そういえば、京都の法華宗を書いた箇所がありました。
宮本常一著「私の日本地図14 京都」(未来社)をひらく。
この箇所を引用して酔いをさます(笑)。
「町民たちは町内の結束をたかめるための寄合をしたり、
自治に必要な費用をいろいろな名目で町民からとりたて、
それを町内の普請につかったり、飲食費にあてたりした。
祇園祭の山や鉾もこうした町内によって守られたのであるが、
さらに、そうした町がいくつか集って町組を組織した。」
(p168)
このあとに「法華退治」という言葉がでてきます。
以下も引用。
「なぜそういうものが必要であったのか、それは
火事を防ぐためであったと思われる。天文五年(1536)
の山門の法華退治のとき、そのまきぞえをくって
上京も下京も多く焼かれた。それから37年ほど後の元亀四年
(1573)に織田信長は二条城に足利義照を包囲し、
その攻撃を効果あらしめるために上京の町々を焼いている。
・・・・・・・・
このような町組は法華宗の流行とともに発生したと見られるが、
文献の上では、天文五年の法華一揆の乱の後に、
法華宗が京都で禁止になったあとにあらわれる。
そして上京には一条組・立売組・中筋組・小川組・川西組などが
あり、それが江戸初期になるともっとこまかに分割されてゆく。
下京には中組・牛寅組・川西組・七町半組などがあったと見られる。
・・・・・・
いずれにしても、町民たちが自身の力で町を守ろうとする組織は、
室町の後期には一応できあがっており、その組織を生み出して
いった思想的な背景に法華宗のあったことは見のがせない。
今日、京の町の山々に見られる送り火の大文字・妙法・舟なども
法華の信者たちによってはじめられたものであり、
しかもそれが町の旧家によってうけつがれていることによって、
今日まで生きつづけてきたのである。そして
法華の寺々も江戸初期には復活してくる。」
(~p171)
はい。いまだ、わたしは酒臭いのですが、
引用しているうちに目が覚めました(笑)。
日蓮宗。御経本を持参して、
「開経偈」「妙法蓮華経法方便品第二」
「妙法蓮華経如来壽量品第一六」などを
お坊さんに声にあわせての読経。
はい。あとは昼間からビールに日本酒を
飲みながらの歓談。
それが午後3時前に終り。送ってもらって
帰ってきたところです。
そういえば、京都の法華宗を書いた箇所がありました。
宮本常一著「私の日本地図14 京都」(未来社)をひらく。
この箇所を引用して酔いをさます(笑)。
「町民たちは町内の結束をたかめるための寄合をしたり、
自治に必要な費用をいろいろな名目で町民からとりたて、
それを町内の普請につかったり、飲食費にあてたりした。
祇園祭の山や鉾もこうした町内によって守られたのであるが、
さらに、そうした町がいくつか集って町組を組織した。」
(p168)
このあとに「法華退治」という言葉がでてきます。
以下も引用。
「なぜそういうものが必要であったのか、それは
火事を防ぐためであったと思われる。天文五年(1536)
の山門の法華退治のとき、そのまきぞえをくって
上京も下京も多く焼かれた。それから37年ほど後の元亀四年
(1573)に織田信長は二条城に足利義照を包囲し、
その攻撃を効果あらしめるために上京の町々を焼いている。
・・・・・・・・
このような町組は法華宗の流行とともに発生したと見られるが、
文献の上では、天文五年の法華一揆の乱の後に、
法華宗が京都で禁止になったあとにあらわれる。
そして上京には一条組・立売組・中筋組・小川組・川西組などが
あり、それが江戸初期になるともっとこまかに分割されてゆく。
下京には中組・牛寅組・川西組・七町半組などがあったと見られる。
・・・・・・
いずれにしても、町民たちが自身の力で町を守ろうとする組織は、
室町の後期には一応できあがっており、その組織を生み出して
いった思想的な背景に法華宗のあったことは見のがせない。
今日、京の町の山々に見られる送り火の大文字・妙法・舟なども
法華の信者たちによってはじめられたものであり、
しかもそれが町の旧家によってうけつがれていることによって、
今日まで生きつづけてきたのである。そして
法華の寺々も江戸初期には復活してくる。」
(~p171)
はい。いまだ、わたしは酒臭いのですが、
引用しているうちに目が覚めました(笑)。