和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

歴史学者はあかんのです。

2019-07-08 | 本棚並べ
「桑原武夫集」第2巻の月報に、
高田宏氏が書いておりました。

そこに、桑原武夫の「洛北のお宅をたずね」る
までの場面が描かれておりました。

「私の編集していた雑誌で、桑原さんに川添登さんと
対談してもらう企画をたてた。・・・
おねがいにあがる段になって私は気おくれしてしまった。
おなじ京都の先生でも・・桑原武夫だけは別だった。・・
どういうふうにたずねたらいいのか、ひるんでしまった。

珍妙なことだが、対談の相手の川添さんに同行してもらった
のである。桑原さんの教え子ではない川添さんが、
いちおうは教え子の一人である私の介添をして、
洛北のお宅をたずねた。
『高田君は京大仏文の出で、桑原さんに教えられた
ことがあるんですよ』という川添さんの紹介に、
私は冷汗をかいていた。・・・・・

桑原武夫にはひとを畏怖させるところがあるのか。
そうではないだろう。・・・しかし、
歴史学者はだめだと公言するような、
その種のおそろしさはある。
気魄と言ってもいい。」


ちなみに、高田宏氏の月報の文のはじまりは、
大学の三回生で聞いた桑原武夫教授の講義が
かたられていました。

「『だから日本の歴史学者はあかんのです』
ということであった。『だから』にいたる論理は
いまはたどれないが、私はそのとき以来、
歴史学者はあかんと思いこんでいる。・・

桑原さんの日本史談義がとりわけおもしろかった。
眼鏡を机の上に置いて、日本史学者はあかんと
断言する桑原教授のちょっと得意げで皮肉な目つきが、
私には痛快であった。私はいまも日本史の本なり
論文なりを読むときに、まず疑ってかかる。
 ・・・・
二足のわらじをはくべしという話もあった。・・・
日本史学者は日本史という専門の枠のなかでしか考えない。
それではだめなんですねえ、アジアの歴史や世界の歴史の
なかで考えなくてはいけません。それにまた、
文学者の目や社会学者の目も持たないと、
歴史はほんとには読めんでしょう。・・」

うん。もう少し引用したいのはやまやまですが、
これくらいでカット(笑)。

高田宏氏は1932年生まれ。
ということは、留年などしなければ、1953年ごろに
桑原先生の講義を、教室のうしろの方で聞いていた
ことになります(笑)。

その1950年代のことが、
小長谷有紀著「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」に
出てきて、オヤっと思いました。
そこを引用。


「1955年、梅棹は京都大学カラコルム・ヒンズークシ
学術探検隊に参加し、モゴール族の調査をおこなった。
帰路、カーブルからカイバル峠を越え、カルカッタまで
自動車で走り抜け、その踏査型フィールドワークから
『文明の生態史観』が生まれた。そして帰国・・・

帰国後の漢字かなまじり文の日記で注目すべきは
1956年4月16日の記録である。
『桑原さんと6時ごろまで話す。
歴史家になりたい、という話をはじめてした』とある。
ずっと思っていたことをようやく話したという
ニュアンスのただよう書き方である。
残念ながら、桑原武夫が何と応えたかは記されていない。」
(p56)


あとは、桑原武夫と梅棹忠夫の関係を引用。


「桑原武夫傅習録」(潮出版社)が、わかりやすい。
そこから引用。

「・・桑原先生は中学校、高等学校、大学を通じて、
わたしの直系の先輩にあたる。わたし自身も登山を
やっていたから、山においても先輩である。のちに、
わたしが人文科学研究所に勤務するようになってからは、
直属の上司であり、指導者であった。
しかし、そういう官職上のつながりを生ずるまえから、
わたしは、桑原先生からさまざまな指導をうけている。
こういう大知識人にめぐりあって、その指導をうける
ことができたことを、わたしは一生のしあわせとおもっている。
もし桑原先生の推挙とそそのかしがなかったら、
わたしは文筆の道などにはふみこむことはなかったであろう。
そして、視野のせまい一自然科学者として一生をおくる
ことになったであろう。だから、わたしが自然科学から
人文科学にのりかえて、理学部から人文科学研究所にうつった
というのは、桑原先生から影響をうける原因なのではなくて、
むしろ影響をうけた結果なのである。・・・」
(p3~4)

ちなみに、「桑原武夫傅習録」には
「明晰すぎるほどの大きな思想家」と題して、
司馬遼太郎の文も掲載されております。

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