古本で注文した
「創造的市民講座」(小学館・1987年)。
これ、京都でおこなわれた市民講座での
十人の講師の講話と、質疑との記録です。
うん。最初は桑原武夫が講師。
質疑応答の仲介者が鶴見俊輔。
まえがきに
「名論卓説の聞きっぱなしということが、
従来の文化講演の欠点であったように思われる。
受けとったものを鵜のみにするのではなく、
主体的に摂取するという立場から、
話すものと聞くものとの間の交流がなくてはならない。
そこで質疑応答のための時間をもうけた。
しかし、従来の経験から、学問に関することだけに、
質問と応答がしくりと噛み合わないことがよくある
ことを私たちは知っていた。そこで、
『聞き手』という新しい形式を考案し、講演者と聴衆
との間をしなやかに調節して結びあわせてもらうこととし、
そのむつかしい役を鶴見俊輔氏にお願いしたのだが、
この博識と思想分析の名手はこれを見事にこなして、
私たちの期待にこたえて下さった。」
はい。このまえがきは桑原武夫氏でした。
まえがきのはじまりは、開講の内容紹介のご自身の活字を
最初の1ページをつかって引用しております。
それがふるっている。はじまりを引用。
「京都には優れた新しい学問がよくそだつ、と言われる。
それは間違っていないようだ。『優れた』というのは、
ひとり合点ではなく客観的、国際的に評価されている
という意味であり、『新しい』というのは、
古い権威にそのまま乗っかったものではなく、
自分で苦労して創出したという意味である。
公平に見て、京都は学問の名産地だといえるのである。
・・・」
こうして、はじまった市民講座は
「毎回四百人ないし五百人の聴講者があった」そうです。
その、第一講が桑原武夫。
はい。全部引用したいのですが、
思いっきり端折ります。
この箇所を引用。
「私は・・開催のことばの中で
『京都は学問の名産地』だと書いておりますが、
その意味は、京都の学問をつくった学者がみな
京都という土地から生れたということではありません。
・・・・・なぜ京都がそういう人を育てたのか、
・・植木にたとえれば京都の土壌のよさです。・・
これについてはまだ明確な説明はできておりませんが、
京都の伝統のこまやかさというか、京都で生きている
京都の人間のもっている理性と感情のこまやかさ、
そしてそこにある京都風の合理性というふうなもの、
別のことばでいえば
京都の人間のもっている冷たさというもの、
それと関係があるだろうと思います。
このことは前からいっているのですが、あまり賛成を得られない。
私がこの話をすると市長さんはいやな顔をするし、
市民諸君もめったに拍手をしてくれないのです(笑)。
・・・・」(p13)
これは面白いテーマです(笑)。
講師の話が終わりまして、つぎに鶴見俊輔氏が
質問を紹介しながら、ご自身が語っているなかに
こんな箇所がある。
「・・・東京からやってきた人間は統計的にいいますと、
十人のうち九人は逃げてしまうんです。
どうして逃げるかというと、
その当人が京都好きでも細君がいやだという。
細君が東京のものだと京都弁が困る。
京都の人の気持がわからない。
ちっとも打ち解けてくれないというわけです。
私は京都弁が全然できないんです。・・・
昭和24年から36年間、だいたい京都とつながりがあって、
住んでいるのですが、全然、京都弁ができない。
しかし率直にいえば、
私は京都でいやな目に遭ったことはないんです。
私の細君が逃げなかったこともあったんですけれども、
それと京都にはよく見ると作法がありますね。
その規則をいっぺん覚えると、
そんなに困ることはありません。
・・・」(p25)
はい。「学問の名産地」の話になると、ぐう~っと
長くなるので、ここでは斜めから引用しました(笑)。
でも、これでおわりにしはさびしいので、
「一流の学者」を桑原さんが、
定義している箇所もさいごに引用。
「この創造的市民大学に司馬遼太郎さんに参加を
していただいたのですが、彼は小説家ではないか
などというバカなことをいってはいけません。
たとえば明治維新の時代の人物・事件、
その起こった場所・時刻。これを司馬さんほど
正確にたくさん知っている人はありません。
いまの大学の日本史の教授・助教授では匹敵できない。
しかも彼は知識だけではなく、それを理論化する。
私は司馬さんを一流の学者だと認めております。
司馬さんには
『人間の集団について』という小さい本があります。
これはベトナム戦争について書かれた
もっともすぐれたエッセイだと思います。
政治学の論文であのようにベトナムを見通したものはない。
学者というのは大学の職階制上の言葉ではありません。
学部とか研究所に所属していなくても、
学問している人が『学者』なのです。・・・」(p18)
「創造的市民講座」(小学館・1987年)。
これ、京都でおこなわれた市民講座での
十人の講師の講話と、質疑との記録です。
うん。最初は桑原武夫が講師。
質疑応答の仲介者が鶴見俊輔。
まえがきに
「名論卓説の聞きっぱなしということが、
従来の文化講演の欠点であったように思われる。
受けとったものを鵜のみにするのではなく、
主体的に摂取するという立場から、
話すものと聞くものとの間の交流がなくてはならない。
そこで質疑応答のための時間をもうけた。
しかし、従来の経験から、学問に関することだけに、
質問と応答がしくりと噛み合わないことがよくある
ことを私たちは知っていた。そこで、
『聞き手』という新しい形式を考案し、講演者と聴衆
との間をしなやかに調節して結びあわせてもらうこととし、
そのむつかしい役を鶴見俊輔氏にお願いしたのだが、
この博識と思想分析の名手はこれを見事にこなして、
私たちの期待にこたえて下さった。」
はい。このまえがきは桑原武夫氏でした。
まえがきのはじまりは、開講の内容紹介のご自身の活字を
最初の1ページをつかって引用しております。
それがふるっている。はじまりを引用。
「京都には優れた新しい学問がよくそだつ、と言われる。
それは間違っていないようだ。『優れた』というのは、
ひとり合点ではなく客観的、国際的に評価されている
という意味であり、『新しい』というのは、
古い権威にそのまま乗っかったものではなく、
自分で苦労して創出したという意味である。
公平に見て、京都は学問の名産地だといえるのである。
・・・」
こうして、はじまった市民講座は
「毎回四百人ないし五百人の聴講者があった」そうです。
その、第一講が桑原武夫。
はい。全部引用したいのですが、
思いっきり端折ります。
この箇所を引用。
「私は・・開催のことばの中で
『京都は学問の名産地』だと書いておりますが、
その意味は、京都の学問をつくった学者がみな
京都という土地から生れたということではありません。
・・・・・なぜ京都がそういう人を育てたのか、
・・植木にたとえれば京都の土壌のよさです。・・
これについてはまだ明確な説明はできておりませんが、
京都の伝統のこまやかさというか、京都で生きている
京都の人間のもっている理性と感情のこまやかさ、
そしてそこにある京都風の合理性というふうなもの、
別のことばでいえば
京都の人間のもっている冷たさというもの、
それと関係があるだろうと思います。
このことは前からいっているのですが、あまり賛成を得られない。
私がこの話をすると市長さんはいやな顔をするし、
市民諸君もめったに拍手をしてくれないのです(笑)。
・・・・」(p13)
これは面白いテーマです(笑)。
講師の話が終わりまして、つぎに鶴見俊輔氏が
質問を紹介しながら、ご自身が語っているなかに
こんな箇所がある。
「・・・東京からやってきた人間は統計的にいいますと、
十人のうち九人は逃げてしまうんです。
どうして逃げるかというと、
その当人が京都好きでも細君がいやだという。
細君が東京のものだと京都弁が困る。
京都の人の気持がわからない。
ちっとも打ち解けてくれないというわけです。
私は京都弁が全然できないんです。・・・
昭和24年から36年間、だいたい京都とつながりがあって、
住んでいるのですが、全然、京都弁ができない。
しかし率直にいえば、
私は京都でいやな目に遭ったことはないんです。
私の細君が逃げなかったこともあったんですけれども、
それと京都にはよく見ると作法がありますね。
その規則をいっぺん覚えると、
そんなに困ることはありません。
・・・」(p25)
はい。「学問の名産地」の話になると、ぐう~っと
長くなるので、ここでは斜めから引用しました(笑)。
でも、これでおわりにしはさびしいので、
「一流の学者」を桑原さんが、
定義している箇所もさいごに引用。
「この創造的市民大学に司馬遼太郎さんに参加を
していただいたのですが、彼は小説家ではないか
などというバカなことをいってはいけません。
たとえば明治維新の時代の人物・事件、
その起こった場所・時刻。これを司馬さんほど
正確にたくさん知っている人はありません。
いまの大学の日本史の教授・助教授では匹敵できない。
しかも彼は知識だけではなく、それを理論化する。
私は司馬さんを一流の学者だと認めております。
司馬さんには
『人間の集団について』という小さい本があります。
これはベトナム戦争について書かれた
もっともすぐれたエッセイだと思います。
政治学の論文であのようにベトナムを見通したものはない。
学者というのは大学の職階制上の言葉ではありません。
学部とか研究所に所属していなくても、
学問している人が『学者』なのです。・・・」(p18)