島内裕子校訂・訳『徒然草』(ちくま学芸文庫・2010年)。
はい。手にしました。パラリと、まずは第137段をひらく
「 花は盛りに、月は隈なきをのみ見る物かは。
雨に向かひて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、
なお、哀れに情け深し。
咲きぬべき程の梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。
・・・・・・ 」 (p267)
はい。これがはじまり。第137段のおわりは、どうだったか?
「 兵(つはもの)の、軍(いくさ)に出づるは、
死に近き事を知りて、家をも忘れ、身をも忘る。
世を背(そむ)ける草の庵には、
静かに水石(すいせき)を翫(もてあそ)びて、
これを余所に聞くと思へるは、いとはかなし。
静かなる山の奥、無常の敵(かたき)、競ひ来らざらんや。
その死に臨める事、軍(いくさ)の陣に進めるに同じ。 」
(p269)
この文庫は各段の原文・訳・評と並びます。
島内裕子さんの訳と評とを引用してみます。
「 桜の花は満開の時、月は満月だけが、見るに価すると
決め込んでしまってよいものだろうか。そうではあるまい。
雨が降っている時に、ああ、月を見たいと恋しく思い、
病気で部屋に閉じ籠もって外出ができず、
春景色の移ろいもわからない、といった状態でも
月や花に憧れるその心持ちがかえって情趣深いのだ。
だから、もうすぐ花が咲きそうになった梢、
桜の花が散り敷いている庭などこそが、むしろ
見所が多いと言ってもよいくらいだ。 」
はい。さいごの箇所も訳してあります。
「 武士が戦場に向かう時は、死が近いことを知って、
自分の家のことも忘れ、自分自身のことも忘れる。
それでは、遁世者はどうだろうか。
俗世間を背いて、草庵で静かに水石を弄んで、
自分だけが死の到来から遠く離れているような
気になっているとしたら、たいそうはかないことだ。
閑静な山奥にも、
死という最強の敵がやってこないことがあろうか。
死というものは、人間がどこに暮らしていようと、
確実に襲いかかってくるのであって、
山奥の草庵暮らしといえども、死に直面している点では、
武士が戦場を突き進んでゆくのと同じであって、
変わることはないのだ。 」( ~p275 )
うん。島内裕子さんの『評』も、忘れずに引用しなくちゃ。
「 徒然草の全体を通して、最大・最高の章段である。 」
島内さんは『評』を、この言葉からはじめてるのでした。
そのあとは、ところどころ抜き出して引用しておきます。
「 さて、兼好の時代からようやく百年後、室町時代の
歌人・正徹(しょうてつ・1381~1459)が、
はじめて徒然草から原文の一部を引用して、
徒然草という作品の存在を文学史に刻印した時、
正徹が引用したのが、この第137段の冒頭の一文だった。 」
うん。島内さんの『評』は、ここでカットするのが惜しいので、
この章だけで終りますが、もう少し引用を続けさせてください。
「 ここで兼好は、花や月の美しさ、恋愛の情趣は
どのように賞玩したらよいのか、という問題提起を行っている。
そして何ごとであれ『良き人』たる教養人は、
対象と距離を置くことによって、むしろその本質や
価値に肉薄していることに注意を喚起し、
逆に対象に近づけば近づくほど、そのものを
損なうことを述べて、その解答としている。
花見や雪の足跡、葵祭見物などの具体例の提示が鮮やかである。
・・・・・・・・
賀茂祭では、行列だけを見るのではなく、
祭当日の明け方から夕暮れに到る一日の情景の変化を
『余所(よそ)ながら見る』べきであるという趣味判断から、
この世の無常の認識へと、思索が飛翔するのである。
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
兼好は、実にさまざまなことを、さまざまな観点から描き出す。
テーマを絞らないという、最初の方針がいかに賢明であったか、
徒然草を読み進めるにつれてよくわかってくる。なぜなら、
一旦ある思索から離れて、その思索が再び心にもどってくるまでの
自由な時間を与えることによって、さらなるおのずからの思索の
広がりと深まりが付加されてくるからである。・・・」
(~p277)
ここまで引用してくると、この同じ章を、
沼波瓊音はどう評していたのか気になる。
この章を評した最後でした。
「 祭の終りの光景、よく其の感じが出て居る。
私は幼少の折『物のあはれ』と云のをも感じたのは
全く、東照宮の祭禮の終る頃の心持であった。
これは誰でも経験があろう。
其土地の祭の終りのあはれさは、
幼き者をして、泣く以上の悲哀を覚えさせるものだ。
兼好はこの心から無常観を強められて来た。
『世の人かずもさのみは多からぬにこそ』と
云事を観じたところは、必ずしも合理的では無いが面白い。」
( p378 沼波瓊音著「徒然草講話」東京修文館・大正14年 )
( ちなみに、私が買った古本は、昭和25年発行のものです。)