和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

つれづれと雨降りくらす。

2022-06-15 | 古典
天気予報では、今日はほぼ雨。
ということだったのですが、午前中は小雨になり、
今は外が明るくなっております。

「つれづれ」の季節については、
ガイド・島内裕子さんの声に耳をすますことに。

枕草子、堤中納言物語、和泉式部日記をとりあげたあとでした。

「同じ『つれづれ』ということばが使われていても、
 かなりニュアンスには違いがあった。けれども、
 『つれづれ』が雨と結びついている点は共通している
 と言ってよいだろう。・・・」(p75)

「『万葉集』には『つれづれ』の用例はない。」(p76)

「勅撰集の中で『つれづれ』の用例を見てゆくと、
 兼好の時代前後の勅撰集、特に『玉葉和歌集』と
 『風雅和歌集』に多いことが気づかされる。  」(p76)

うん。せっかく和歌が6首引用されているので、
そのままに引用してみます。

 つれづれと雨降りくらす春の日はつねより長きものにぞありける
         ( 『玉葉和歌集』 春上・101・章義門院 )

 ながめするみどりの空もかきくもりつれづれまさる春雨ぞ降る
         ( 『玉葉和歌集』 春上・102・藤原俊成 )

 つれづれと空ぞみらるるおもふ人あまくだりこむものならなくに
         ( 『玉葉和歌集』 恋二・1467・和泉式部 )

 つれづれとながむるころの恋しさはなぐさめがたきものにぞありける     
         ( 『玉葉和歌集』 恋三・1498・藤原定頼 )

 つれづれとながめながめてくるる日の入りあひの鐘の声ぞ寂しき
         ( 『風雅和歌集』 雑中・1664・祝子内親王 )

 つれづれと山かげすごき夕暮れのこころにむかふ松のひともと
         ( 『風雅和歌集』 雑中・1734・従三位親子 )


はい。ついついつられて和歌を引用しちゃいました。
次に、兼好法師集から引用がある。こちらはカット。

では、ガイド・島内裕子さんの指摘を引用して終わります。

「『つれづれ』ということばの系譜を概観したことによって、
 これが王朝時代の和歌や散文作品によく使われることばであること、
 そこでは雨と結びつき、主として恋愛の感情を意識することによって
 起こる欠落感や寂しさ・つらさなどを含むことばであることがわかった。

 その一方で、恋愛とは結びつかぬ、
 自分自身の心のあり方としての所在なさを意味する
 『つれづれ』もあり、徒然草序段もこの意味で使われている。」
                    ( ~p79 )

こうして、ガイドさんは徒然草への旅のはじまりに際して、
まずは、読み手の心構えと、順序コースとを語っています。

「・・すでに出来上がり、評価の定まった作品として
 徒然草を読むのではなく、

 徒然草をまさに今執筆しつつある兼好とともに、
 読み進めてゆくことができるなら、おそらく従来の
 イメージとはまた違った新たな徒然草像が、眼前に
 刻々と繰り広げられてゆく光景を見ることができるだろう。」

「 序段で兼好が、
 『書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ』と書いているのは、
 まさに執筆しつつある過程で、その書かれたものを最初の読者として
 改めて読んだ時、自分自身の新たな姿が紙の上に定着していることへ
 の驚きのことばではないだろうか。

 そのような観点から徒然草を読むということは、
 どうしても徒然草を序段から順に読んでゆくことが必要となる。

 後世の読者にとって、ある作品をどこから読むかは
 全くその人に任されており、物語文学などと違って・・・

 随筆の場合、どこから読んでも、どこで止めても大差ない
 と思われがちだが、徒然草を最初から最後まで通読すると、
 多彩な内容の背後に、著者兼好の精神の変貌を垣間見ることができる。
 ・・・・     」 ( ~p80 )

 
以上は、島内裕子著「徒然草の内景」(放送大学教材・1994年)
 発行所は、財団法人放送大学教育振興会とあります。

はい。道順は示されました。
これからも、ガイドさんの声に導かれて。


コメント
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