和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

歌仙のルール。

2022-06-03 | 古典
芭蕉の歌仙を読みはじめると、
歌仙にはルールがあるらしい。

うん。ただ読む私のようなものには、
そのルールはできるだけ飛ばし読み
をしてゆきます。それでも気になる。

そんなことを思っていたら、徒然草との
関連でルールを思いうかべると楽しめる。
そう思えてきました。まずは徒然草から。

「『徒然草』は、名文・名句の宝庫である。
『折節(おりふし)の移り変はるこそものごとにあはれなれ』(第19段)とか
『少しのことにも、先達(せんだつ)はあらまほしきことなり』(第52段)、
『花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは』(第137段)や
『よろづのことは頼むべからず』(第211段)などといった

簡潔で明快な文章は、読者の心に丸ごと深く刻印される。
もっと短いほんの一言にさえ、それを聞いただけで、
『ああ、これは「徒然草」だ』と思わずにはいられない、
紛うことなき独自の魅力がある。・・・・・

言葉のリアリティこそが文学作品の生命である。 」

  ( p106 「西行と兼好」ウェッジ選書の中の島内裕子の文 )

徒然草と、歌仙のルールとが密接につながるような気がします。
たとえば、花と月です。
徒然草の、『花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは』が
歌仙では、そのルール範囲で、どのように組み込まれているのか。

「『月』は、春の『花』とともに四季の景物を代表するものとされ
 したがって連句においては、それらが一巻をひきしめるものとして
 ほどよく出てくるようにという配慮から、その数と配置とが
 定められていまして、それを定座(じょうざ)と申します。
  ・・・・・・・               」
       ( p35 尾形仂著「歌仙の世界」講談社学術文庫 )


ルールというと、もう最初からして思考停止状態になる私ですから、
こうして、歴史的な流れのなかで、徒然草と歌仙とを比べてゆけば、
何となく、身近な裾野の広がりとして、理解できそうな気がします。

もう一箇所引用。
徒然草の、『折節(おりふし)の移り変はるこそものごとにあはれなれ』は
歌仙では、どうルール化されゆくのか。

「句を付ける場合、前の句のもう一つ前の句を打越(うちこし)といい、
 打越の世界は切り捨てて、もうそこへは戻らないというのが、
 連句の鉄則になっていまして、

 付句が前句を軸に打越と同じような内容や
 気分の繰り返しになることを≪観音開き≫とか≪扉≫といって
 きびしく戒めています。

 特に第三の場合には、新しく一巻全体の変化を喚び起こす意味で、
 前句である脇の句に対してもベッタリと付けず、ある距離を置き
 離れて付けるのがよい、というのです。・・・ 」 
           ( p33 尾形仂著「歌仙の世界」同上 )            


「一句のうちにあえて趣向を凝らすことなく、
 ただ連句の運びが渋滞したような場合、
 気分を軽くくつろげてあっさりと先へ付け
 進めるだけの句を、遣句(やりく)といい、
 通常はとかく軽視されがちですが、

 『三冊子』には、芭蕉が『三十六句、みな遣句』と言って、
 歌仙全巻をすべて遣句の心得をもって付け進めるべきことを
 説いたことが伝えられています。

 四句目への腐心といい、遣句の尊重といい、
 蕉風の連句にとって、凝滞なき詩心の流動展開
 ということが、いかに重要視されたかを物語る
 ものといっていいでしょう。  」( p39 「歌仙の世界」同上 )


うん。こうして尾形氏の文を引用していると、
ルールといっても、ある程度流動的でいいような
そんな気がして、読むだけでも気が楽になってきます。

コメント (6)
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