芭蕉の歌仙を読みはじめると、
歌仙にはルールがあるらしい。
うん。ただ読む私のようなものには、
そのルールはできるだけ飛ばし読み
をしてゆきます。それでも気になる。
そんなことを思っていたら、徒然草との
関連でルールを思いうかべると楽しめる。
そう思えてきました。まずは徒然草から。
「『徒然草』は、名文・名句の宝庫である。
『折節(おりふし)の移り変はるこそものごとにあはれなれ』(第19段)とか
『少しのことにも、先達(せんだつ)はあらまほしきことなり』(第52段)、
『花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは』(第137段)や
『よろづのことは頼むべからず』(第211段)などといった
簡潔で明快な文章は、読者の心に丸ごと深く刻印される。
もっと短いほんの一言にさえ、それを聞いただけで、
『ああ、これは「徒然草」だ』と思わずにはいられない、
紛うことなき独自の魅力がある。・・・・・
言葉のリアリティこそが文学作品の生命である。 」
( p106 「西行と兼好」ウェッジ選書の中の島内裕子の文 )
徒然草と、歌仙のルールとが密接につながるような気がします。
たとえば、花と月です。
徒然草の、『花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは』が
歌仙では、そのルール範囲で、どのように組み込まれているのか。
「『月』は、春の『花』とともに四季の景物を代表するものとされ
したがって連句においては、それらが一巻をひきしめるものとして
ほどよく出てくるようにという配慮から、その数と配置とが
定められていまして、それを定座(じょうざ)と申します。
・・・・・・・ 」
( p35 尾形仂著「歌仙の世界」講談社学術文庫 )
ルールというと、もう最初からして思考停止状態になる私ですから、
こうして、歴史的な流れのなかで、徒然草と歌仙とを比べてゆけば、
何となく、身近な裾野の広がりとして、理解できそうな気がします。
もう一箇所引用。
徒然草の、『折節(おりふし)の移り変はるこそものごとにあはれなれ』は
歌仙では、どうルール化されゆくのか。
「句を付ける場合、前の句のもう一つ前の句を打越(うちこし)といい、
打越の世界は切り捨てて、もうそこへは戻らないというのが、
連句の鉄則になっていまして、
付句が前句を軸に打越と同じような内容や
気分の繰り返しになることを≪観音開き≫とか≪扉≫といって
きびしく戒めています。
特に第三の場合には、新しく一巻全体の変化を喚び起こす意味で、
前句である脇の句に対してもベッタリと付けず、ある距離を置き
離れて付けるのがよい、というのです。・・・ 」
( p33 尾形仂著「歌仙の世界」同上 )
「一句のうちにあえて趣向を凝らすことなく、
ただ連句の運びが渋滞したような場合、
気分を軽くくつろげてあっさりと先へ付け
進めるだけの句を、遣句(やりく)といい、
通常はとかく軽視されがちですが、
『三冊子』には、芭蕉が『三十六句、みな遣句』と言って、
歌仙全巻をすべて遣句の心得をもって付け進めるべきことを
説いたことが伝えられています。
四句目への腐心といい、遣句の尊重といい、
蕉風の連句にとって、凝滞なき詩心の流動展開
ということが、いかに重要視されたかを物語る
ものといっていいでしょう。 」( p39 「歌仙の世界」同上 )
うん。こうして尾形氏の文を引用していると、
ルールといっても、ある程度流動的でいいような
そんな気がして、読むだけでも気が楽になってきます。