本棚から「ことだま百選」(講談社・2014年)をとりだす。
うん。たしか新聞書評かなにかで、買った一冊でした。
東京都杉並区天沼中学校編となっております。
カバーの折り返しには紹介文。それを引用。
「東京都杉並区天沼中学校の取り組み。
『言葉こそ人間関係の基礎』という考えのもとに
藤川章校長が発案し、国語科の川原龍介教諭らが
名文・名句をまとめたものが、
2013年4月に『言霊百選』として冊子化されました。
・・・・・ 」
「はじめに」の前ページに、古今和歌集の仮名序が載せてあります。
うん。引用。
「 やまとうたは、人の心を種として、
万(よろず)の言(こと)の葉とぞなれりける。
世の中にある人、ことわざ繁(しげ)きものなれば、
心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、
言ひ出(いだ)せるなり。 」
はじまりの「ことだま1」は、いろは歌でした。
「 色はにほへど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔(ゑ)ひもせず 」
徒然草序段はというと、「ことだま59」にありました。
「 徒然なるままに、日暮らし、硯に向かひて、
心にうつりゆく由無し事を、そこはかとなく書き付くれば、
あやしうこそ物狂ほしけれ。 」
うん。島内裕子校訂・訳「徒然草」(ちくま学芸文庫・2010年)から
この序段の現代語訳と評とを引用してみることに。
まずは、『評』にある「序段の眼目」から
「・・ただし当時(江戸時代)は、この序段と、次の第一段を
一続きにして、『第一段』とする本もあった。けれども、
冒頭の一文を独立させて序段とすることが
そのまま、徒然草という作品自体の生成と展開を
的確に指し示すことに気づくことが、重要である。
『心にうつりゆく由無(よしな)し事を、そこはかとなく』
書くことは、例えば、恋愛とか、旅とか、戦争とか、滑稽譚とか、
テーマを決めなくても、執筆できるという新しい文学宣言だった。
ここが、序段の眼目である。 」
さてっと、「ことだま百選」は、中学生が声を出して覚える暗唱を
『天沼検定』として実践されていることが最後に書かれております。
「天沼検定は、言霊名人になれば通知表で『5』がもらえる、
というようなものではありません。
そのため、教師の間では、生徒がやる気をもって
取り組んでくれるか、不安もありました。
ところが、その不安は杞憂(きゆう)に終わりました。
・・・ 」(p123)
うん。ここは、もうすこし具体的に紹介したくなるのですが、
ここまでで、カット。
最後には、島内裕子さんの徒然草序段の現代語訳
「 さしあたってしなければならないこともないという
徒然の状態が、このところずっと続いている。
こんな時に一番よいのは、心に浮かんでは消え、
消えては浮かぶ想念を書き留めてみることであって、
そうしてみて初めて、みずからの心の奥に蟠(わだかま)って
いた思いが、浮上してくる。
まるで一つ一つの言葉の尻尾に小さな釣針が付いてるようで、
次々と言葉が連なって出てくる。
それは、和歌という三十一文字からなる
明確な輪郭を持つ形ではなく、
どこまでも連なり、揺らめくもの・・・。
そのことが我ながら不思議で、
思わぬ感興でのおのずと筆も進んでゆく、
自由に想念を遊泳させながら、
それらに言葉という衣装を纏(まと)わせてこそ、
自分の心の実体と向き合うことが可能となるのではなかろうか。」
( p17 )