和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ふーん、なるほど。信濃の月。

2022-06-21 | 古典
対談の言葉は印象深いのですが、話題が流れてゆくためか、
残念なことに、あとでどこにあったのか忘れてしまいます。
忘れたことが気になって、忘れ物探しに時間をつぶします。
うん。そんなことがないように、とりあえずは書いてみる。
はい。ちょっとしたことなので、どうつながるか。

ちくま学芸文庫『徒然草』のp59。
島内裕子さんの『評』に、古今和歌集の古歌が引用されてた。

「『わが心慰めかねつ更級や姥捨山に照る月を見て』
  という『古今和歌集』の古歌もあるように・・・  」

そういえば、丸谷才一と大岡信の対談「唱和と即興」に
山頭火に触れた箇所があったなあ。
最近読んだので、すぐにページがめくれました。
そこを引用しておくことに。

丸谷】・・・この一年ばかり、山頭火の句をずっと読み続けましてね。
   山頭火の句の中でぼくが一番好きだった句は、
   いままで誰も褒めてない句なんです。

      なるほど信濃の月が出ている

大岡】 ふーん、なるほど。

丸谷】・・・昭和13年かな、信州へ行ったときの句。

   最初は、『なるほど』という間投詞でしょう。
   それから 『信濃』という固有名詞でしょう。
   間投詞と固有名詞を除くと、『月が出ている』
   というただそれだけになっちゃう。

   でも、この間投詞+固有名詞+『月が出ている』、
   この3つ・・・

   ・・・・・問題は、『信濃の』って言葉だよね。
   これがほかの何かで、
  『京都の月が出ている』じゃもちろんだめなわけですよ。
   信濃でなきゃいけない。
   姥捨山の月でなくちゃいけない。
   山頭火がたった一人でポツンと歩いていると、
  『古今集』の姥捨の月という伝統との対話が成立する。
  『古今』読人知らずの歌人と、
   お互いに唱和することができるわけでしょう。
   だから『なるほど』だ。

   そこでさびしさが解消されて、心が満たされるわけですね。
   そういう楽しさを感じることができる。
   そして大前提としての孤独も、身にしみる。・・・・

   ・・・明治維新以前の日本文学との対話ということを、
   現代俳人はどうも怠っているんじゃないかしらってことなんです。」

           ( p113~115 「古典それから現代」構想社 )

うん。ここでの丸谷さんの言葉って、何を言いたいのかなと思うと、
徒然草の第13段のはじまりが思い浮かぶわけです。

「 一人、燈火(ともしび)の下(もと)に、文を広げて、
  見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰む業(わざ)なる。  」

と言われても、なかなかに『なるほど』とは言えないわけです。

     なるほど信濃の月が出ている     山頭火

 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする