杉本秀太郎著「洛中通信」(岩波書店・1993年)に、
外国に持っていった文庫本に触れた箇所があります。
こういうちょっとした箇所は、どの本にあったのか、
すぐ忘れるので、備忘録がてら引用しておくことに。
杉山秀太郎氏は、1982年秋から翌年春にかけて外国にいたそうです。
「私は毎朝、天窓から光の射すあかるい浴槽に横たわって、いずれも
文庫本の『徒然草』『芭蕉七部集』『春雨物語』『古事記』を
しばらく読むという暮し方をつづけたのであった。
日本の古い書物を読むのに最も適している場所は、
日本のなかにあるわけではなく、わが身を流謫の身に
なぞらえながら暮すことのできるような外国の都市にある。
それはまさに『徒然草』第五段にいう
『配所の月、罪なくて見ん事』が可能な場所ということになるだろう。」
( p90~91 )
うん。外国には行ったこともないのですが、
その際持ってゆく文庫というのが気になる。
以前雑誌のテーマによくあった気がします。
『孤島にもってゆくとしたら、どんな本を
あなたは持ってゆきますか?』という質問。
うん。『春雨物語』は、名前も知らないので
気にしたら、同じ本に2㌻の解説がありました。
「隣りは何をする人ぞ――上田秋成のこと」(p166~167)
はい。ここもすぐに忘れそうで、どの本にあったのか
想い出せなさそうなのでまたまた引用しておくことに。
「 癇癪、八当りによって儒の教訓臭をはねとばし、
煎茶の晴朗心によって仏の因循を濾過し、
そうするうちに発明した書法によって、
秋成は小説のなかに魂を解放し、
まことに人たるにふさわしい自由というものに形をあたえた。
『雨月』『春雨』の諸篇は、この解放の美しい証跡である。
各篇それぞれの読後に揺曳する言いようのない悲哀の気味は、
美しく晴れた一日のおわり、西空にかかっている弦月を見た
ときに私たちがおぼえる感情と異なるものではないだろう。
・・・およそ二百年前に死んだ人とは思えない。
秋成は、私たちの最も身近な隣人である。 」
う~ん。もってゆく文庫本四冊。
とりあえず、身近に『徒然草』。本棚に『芭蕉七部集』。
少年少女読本でしか、読んだことのない『古事記』。
まるっきり読んだことのない『雨月』『春雨』なのでした。
そういえば、と思い浮かんだのは「サザエさんうちあけ話」。
その29章『思いでの人 矢内原忠雄先生』の最後の一コマに
廊下で、メガネの町子さんが、足を両手で組んで座って、
庭の鉢植えの菊を見てる。縁側の町子さんのそばにネコ。
枯葉が三枚降りそそぐ図柄。そこには、こうありました。
「 私は矢内原先生を思いだすたびに
雨月物語の『菊花のちぎり』が頭にうかんでくるのです。」
はい。とりあえずは、読まないだろうけど、
視野の片隅に入れておくことにします(笑)。