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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

これもまた、尊(たふと)し。

2022-06-23 | 古典
徒然草の、第38段から第39段まで。
最終的に、第39段の原文を引用してみたいのですが、
関連する、第38段に言及しそこからの繋がりに着目。

はじめに、第38段。
ちくま学芸文庫の「徒然草」の評も短いので、
わかったようで、わからない。それならばと、
島内裕子著「徒然草の内景」から丁寧に引用。

「第38段は、『人生いかに生きるべきか』という
 永遠のテーマに正面から取り組んだ段である。
 ・・まるで兼好ともうひとりの兼好による
 『対話劇』のような強い緊張を孕んだ展開になっている。」(p141)

「今まで読んできた中でも第19段や第1段に次ぐ長い章段であり、
 兼好も非常に力を込めて書いている。中国の古典による表現が
 多用され、持てる知識を総動員している感がある。・・・

 今まで書いてきたことの総決算的な意味がこの段にある
 ことも忘れてはならない。 」(p142~143)

この第38段についてでは、島内裕子さんは
方丈記との関連を持ち出していて印象深いのでした。

「『万事は皆非なり。言ふに足らず。願ふに足らず。』
 という最後(第38段)の部分には・・・
 兼好の孤独な姿があらわれている。・・

 ここを読むと、『方丈記』の最末尾、

 『その時、心さらに答ふる事なし。
  ただ、かたはらの舌根をやとひて、
  不請阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ。』

 という終わり方を連想させずにはいられない。
 ・・・長明は自らに問いかける。しかし、明確な
 答えを得ることができず、『方丈記』という作品は
 稿を閉じられたのであった。

 それに対して兼好の場合、
 徒然草をここで終わりにすることなく、
 さらに書き続けてゆく。・・・・・
 兼好の新たな精神の地平が、いかにして
 切り拓かれていったか・・・」(p146~147)


はい。徒然草の第38段は、原文を引用しても
私には「猫に小判」宝の持ち腐れなので、
島内裕子さんの説明を引用しました。
それでは、『兼好の新たな精神の地平』に
浮かび上がってきた第39段の原文と、
文庫での評とを引用して終わります。

第39段

「或る人、法然上人に、
 『念仏の時、眠りに侵されて、行を怠り侍る事、
  いかがして、この障りを止め侍(はべ)らん』
 と申しければ、

 『目の醒めたらん程、念仏し給へ』
 と答へられたりける、いと尊かりけり。
 また、
 『往生は、一定(いちぢやう)と思へば一定、
  不定と思へば不定(ふぢやう)なり』
 と言はれけり。これも、尊し。
 また、
 『疑ひながらも念仏すれば、往生す』
 とも言はれけり。これもまた、尊し。  」(p89 文庫)

さて、この第39段の評を島内裕子さんは
文庫ではどう指摘していたのか

評】 理詰めな書き方の第38段に対して、
   融通無碍(ゆうずうむげ)な法然上人の言葉を書き、
   好対照である。
   兼好はこのような自在な境地があることに深く感動して、
   三度も尊いことだ、と共感している。
   このような共感が、新たな扉を開くことになる。 (p90)
 



コメント (4)
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