和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

げにげにしく、良き人かな。

2022-06-22 | 古典
徒然草の第35・36・37段をまとめて、島内裕子さんは

「 日常生活の中で目にする他人の有様や生き方を通して、
  人の振る舞いの良し悪しを書いている。

  これらの章段を読むと、とても一人静かに山里の
  草庵暮らしを営む人物として、兼好を想像することが出来ない。

  人間関係の中での身近な見聞や、それに触発された
  人間のあり方への思索だからである。
  徒然草の記述スタイルが、次第に広がりを見せ始める。」
                  ( p82 文庫 )

うん。各段のはじまりの原文は

第35段は「手の悪き人の、憚らず文書き散らすは、良し。」
第36段は「『久しく訪れぬ頃、いかばかり恨むらんと・・』」

ここでは、第37段をとりあげてみます。
まずは、原文から

「 朝夕、隔て無く馴れたる人の、とも有る時、
  我に心置き、引き繕へる様に見ゆるこそ、

 『今更、かくやは』など、言ふ人も有りぬべけれど、
  猶、げにげにしく、良き人かなとぞ覚ゆる。  」

う~ん。これが第37段の前半ですが、
原文だけじゃ、何だかチンプンカンプン。
さっそく、島内裕子訳へ。

訳】 朝夕、隔てなく慣れ親しんだ人が、ふとした時に、
   自分に対して遠慮し、改まった態度に見えるのは、
  『今さらそんな』と言う人もいるようだけれど、
   やはり何と言っても、誠実で信用の置ける
   立派な人だと思える。 


後半は、原文で一行ほど

 「 疎き人の、打ち解けたる事など言ひたる、
       また、良しと思ひ付きぬべし。」

訳】 逆に、普段はそれほど親しくない人が、ふとした時に、
   打ち解けたことなどを言ったならば、これもまた、よいことだと、
   その人に心引かれる思いがするだろう。

島内裕子さんの『評』には、簡潔さへの言及がありました。

「 いずれにせよ、・・短く簡潔であり、
  自由に想像を羽ばたかせて読むことができる。
  徒然草にはそのような段が多いことが、大きな魅力である。 」
             ( p83 ちくま学芸文庫「徒然草」 )


以前は、第35段が気になったことがあります。
今回は、第37段が気になりました。
      
うん。またしても、水先案内人・島内裕子さんの
折に触れての、ふとした語りが思い浮かびました。

「 教科書に出てくる徒然草は、簡潔で多彩な
  いくつもの短い章段からなり、
  『パンセ』や『侏儒の言葉』のような
  断章形式が何とも魅力的だった。

 『この作品を、一生研究してゆきたい』と、
  十代の半ばで思い定めたのは、今振り返れば
  不思議な気もする。・・・・        」
       ( p299 島内裕子著「兼好」ミネルヴァ書房 )


いつも断章形式は、私にはチンプンカンプンで、
ガイド島内裕子さんの案内がなきゃ進めません。







 
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