徒然草の第35・36・37段をまとめて、島内裕子さんは
「 日常生活の中で目にする他人の有様や生き方を通して、
人の振る舞いの良し悪しを書いている。
これらの章段を読むと、とても一人静かに山里の
草庵暮らしを営む人物として、兼好を想像することが出来ない。
人間関係の中での身近な見聞や、それに触発された
人間のあり方への思索だからである。
徒然草の記述スタイルが、次第に広がりを見せ始める。」
( p82 文庫 )
うん。各段のはじまりの原文は
第35段は「手の悪き人の、憚らず文書き散らすは、良し。」
第36段は「『久しく訪れぬ頃、いかばかり恨むらんと・・』」
ここでは、第37段をとりあげてみます。
まずは、原文から
「 朝夕、隔て無く馴れたる人の、とも有る時、
我に心置き、引き繕へる様に見ゆるこそ、
『今更、かくやは』など、言ふ人も有りぬべけれど、
猶、げにげにしく、良き人かなとぞ覚ゆる。 」
う~ん。これが第37段の前半ですが、
原文だけじゃ、何だかチンプンカンプン。
さっそく、島内裕子訳へ。
訳】 朝夕、隔てなく慣れ親しんだ人が、ふとした時に、
自分に対して遠慮し、改まった態度に見えるのは、
『今さらそんな』と言う人もいるようだけれど、
やはり何と言っても、誠実で信用の置ける
立派な人だと思える。
後半は、原文で一行ほど
「 疎き人の、打ち解けたる事など言ひたる、
また、良しと思ひ付きぬべし。」
訳】 逆に、普段はそれほど親しくない人が、ふとした時に、
打ち解けたことなどを言ったならば、これもまた、よいことだと、
その人に心引かれる思いがするだろう。
島内裕子さんの『評』には、簡潔さへの言及がありました。
「 いずれにせよ、・・短く簡潔であり、
自由に想像を羽ばたかせて読むことができる。
徒然草にはそのような段が多いことが、大きな魅力である。 」
( p83 ちくま学芸文庫「徒然草」 )
以前は、第35段が気になったことがあります。
今回は、第37段が気になりました。
うん。またしても、水先案内人・島内裕子さんの
折に触れての、ふとした語りが思い浮かびました。
「 教科書に出てくる徒然草は、簡潔で多彩な
いくつもの短い章段からなり、
『パンセ』や『侏儒の言葉』のような
断章形式が何とも魅力的だった。
『この作品を、一生研究してゆきたい』と、
十代の半ばで思い定めたのは、今振り返れば
不思議な気もする。・・・・ 」
( p299 島内裕子著「兼好」ミネルヴァ書房 )
いつも断章形式は、私にはチンプンカンプンで、
ガイド島内裕子さんの案内がなきゃ進めません。