清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)の中に、
「簡潔の美徳」(第19話)という箇所がありました。
「 日本文では、簡潔な書き方というのが、
或る特別な重要性を持っているように考えられます。
簡潔という美徳を大切にしないと、私たち日本人は、
情報の伝達という点で外国人に大きく負けてしまう
ような気がするのです。 」(p125)
うん。読んでいて、何か違和感があったためか、
逆に印象に残っていました。もう少し引用しておくと、
「私は何が言いたいのか、とおっしゃるのですか。そうですね。
文章作法から随分離れたところへ来てしまったような感じがしますが、
・・・・・敢えて一つの教訓を引き出すとしますと、
日本人たるもの、文章の簡潔という美徳を
忘れてはならないということになるでしょう。 」(p124)
小林秀雄に『徒然草』という、全集で3ページほどの短い文があります。
あんまり短いので何を言っているのやら、わからずにおりました。
気になるけれど、わからないからか、すっかり忘れておりました。
ガイドの島内裕子さんの『徒然草』案内には、その小林秀雄の文も
しっかりと登場する場面があるのでした。
うん。それならと、小林秀雄の『徒然草』を読んでみる。
はい。なんせ短いですからね(笑)、そこにはこんな箇所。
「 物が見え過ぎる眼を如何にしたらいいか、
これが徒然草の文体の精髄である。 」
この短文は、最後に徒然草第40段の全文を引用して、
しめくくられております。うん。この際そこを引用。
「鈍刀を使って彫られた名作のほんの一例を引いて置こう。
これは全文である。
『因幡の國に、何の入道とかやいふ者の娘容美(かたちよ)しと聞きて、
人数多言ひわたりけれども、この娘、唯栗のみ食ひて、更に米(よね)
の類を食はざりければ、斯(かか)る異様(ことやう)の者、
人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり』
これは珍談ではない。徒然なる心が
どんなに沢山な事を感じ、
どんなに沢山な事を言はずに我慢したか。 」
うん。ガイドの島内裕子さんは、ここを取り上げてゆきます。
「 室町時代に歌人正徹によって徒然草が見出されて以来、
どれほどの人々がこの作品を読んできたか数え切れない。
だがその中で誰一人、
小林秀雄ほど第40段に注目した読者はいなかった。
・・・・
この小林の貴重な発言は、その後の徒然草研究の中で
正当に取り上げられることはなかった。
『何を言わんとしているか、わからない』とか、
『評論家の思いつきの発言だろう』くらいにしか、
捉えられてこなかったからである。」
( p201 島内裕子著「兼好」ミネルヴァ書房 )
このあとに、島内裕子さんは、ちょっとした物語を語っています。
うん。自由な連想という感じですのでお気楽に引用しておきます。
「兼好がいつどこでこの話を聞いたかは、わからない。
その場では皆と一緒に、一時の座談の面白い話だと
思っただけかもしれない。けれども彼の心の中には、
この風変わりな娘がひっそりと棲みついていた・・。
机の上には、硯と筆、そして
『万事は皆非なり。言ふに足らず。願ふに足らず』と書いて、
しばらく中断していた冊子が広げられている。
最近、ふと思い付いてそのあとに法然の話を書いてはみたが、
またしばらくそのままになっていたものだ。・・・・
その時どうしたはずみか、兼好の心の中を、
ずっと忘れていた因幡国の娘がよぎる。
都を遠く離れた因幡国で、未婚のままでいる美しい娘。
娘は父親の庇護のもと、さしあたって何の心配もなく、
好きな栗だけを食べて暮らしている・・・
一体あの娘は、その後どうなったのであろうか。
波風立たぬ平穏な、しかし退屈な毎日を過ごしているのだろうか。
そして、何の汚れもない童女のままの姿で、年老いていったのだろうか。
・・・・
兼好もまた、一人の『異様の者』だった。
子孫など不要であると断言していた兼好(第6段)。
『住み果てぬ世に醜き姿を待ち得て、何かはせん。
命長ければ辱(はぢ)多し。長くとも、四十(よそぢ)
に足らぬほどにて死なんこそ、めやすなるべけれ』(第7段)
と書いて、老醜に対して生理的とも言うべき反発を感じていた兼好。
現実のどこにも心の友がいなくて、孤独だった兼好(第12段)。
世間の人々の私利私欲、立身出世志向、
そしてすぐれた智恵や才能さえも否定して(第38段)、
次なる一歩を踏み出せないでいる兼好。
因幡の娘は、栗だけを生きる糧としていた。
それなら兼好は、何を糧として生きていたのか。
兼好の生きる糧、それが『理想』だった。しかし栗しか
食べない娘が『異様の者』として周囲から孤絶していたように、
『理想』だけを糧としている兼好の生き方もまた孤独なものだった。」
(~p207 島内裕子著「兼好」ミネルヴァ書房 )
そして徒然草は、第40段から第41段へ、つながるのでした。