徒然草の第55段をとりあげます。
ここはまず、回り道することに。
季刊「本とコンピュータ」(1999冬)に
鶴見俊輔・多田道太郎対談「廃墟の共同研究 カードシステム事始」
というのがあるのでした。共同研究でのことが語られていきます。
まずは、『ルソー研究』(1951・昭和26年)を一年で本にまとめた話。
多田】 研究会は、週一回やっていましたね。
鶴見】 毎週金曜日ごとに、各自が発表しました。
討論が白熱して、夜までかかることもしばしばありました。
恐ろしいのはね、夏も研究会をやったんだ。
京都に熱波がくるとね、あまりにも暑くて、
皆がしばらくジーッと黙ってしまうんだ(笑)。
だからこそ、一年でできちゃったんだ。
合理主義者の桑原さんが、よくああいう
非合理な進め方をしたね。 ( p200 )
対談は、ここからはじまってゆくのですが、のちのち、
『京都に熱波がくるとね』がしっかり刷り込まれます。
それでは、徒然草の第55段。
段の最後は、『人の定め合ひ侍りし』とあり、
この段が「皆でいろいろ話し合った時の談話」
を書き留めたものであると、わかるのでした。
第55段の原文を、全文引用。
「 家の作り様は、夏を旨とすべし。
冬は、いかなる所にも住まる。
暑き頃、悪き住居は、堪へ難き事なり。
深き水は、涼しげ無し。
浅くて流れたる、遥かに涼し。
細かなる物を見るに、遣戸(やりど)は、
蔀(しとみ)の間よりも、明かし。
天井の高きは、冬寒く、燈火暗し。
造作は、用無き所を作りたる、見るも面白く、
万の用にも立ちて良しとぞ、人の定め合ひ侍りし」
ここは、安良岡康作(やすらおかこうさく)の解釈を引用。
「・・・日本の風土の、ことに、山に囲まれた盆地にあって、
湿気の多い京都の状況から考えて、よく的を射た立言といえよう。
そして、夏涼しく作った家は、冬も暖かく住めることは、
われわれがよく経験する所である。
後段落では、一転して、遣水・遣戸・天井など、
住居の細部につき一々述べている。そして、終わりに、
建築中の『用なき所』をちゃんと造営しておくことが、
無用の用として、『見るも面白く、万の用にも立ちてよし』という、
多くの人々の意見を付加している。
日本住宅の床の間のごとく、建物の一部にそうした
余裕を残しておくことで、全体が生かされることも、
われわれのよく経験している事実である。・・ 」
( p257 安良岡康作著「徒然草全注釈 上巻」角川書店 )
はい。比べる意味でもここは沼波瓊音
の第55段の『評』を、引用ておきます。
「・・・夏の事のみを思って建てよ、と云ったのは、
斯う云はれて見ると、成程と思はれる。
が、一寸気づかぬことである。
老人などは暖い所暖い所と望む。
それで老人のある家では、つい冬のことばかり考へて、
住居を定める。そして夏に逢って閉口すると云事が、
今も随分ある。
『冬はいかなる所にも住まる』とは全くである。
火をおこしたり、窓を閉じたり、閉籠れば辛抱が出来るのだ。」
つぎには、水のことになります。京都の庭園を思い浮べながら
私などは読むことにします。
「ここに水のことを云ったのは、
庭に作るべき池や遣水についての注意である。
・・・深い池を作る、作る人は、夏などはいかにも
涼しいであらうと思っているが、夏になると、
一向涼しくも何とも無い。
おまけに蚊が湧いたりなんかする。
日中には生温い水が烈日を反射する。
『浅くて流れたる』のが涼しいと云のである。
一寸考へると・・水の分量が庭に多い程涼しげなわけだが、
実際も感じに於ても反対である。
浅いのがよい。そして静止して居ないで流れてるのが宜しい。
池よりは遣水の方が遥かに涼味に於いて勝る。
・・・・・・・
天井論、簡にして適中の言である。
我々はこの句で、寒夜天井高き部屋、弱げなる灯、
斯う云絵をさへ見る心地がする。
造作は用の無い所を造れ、とは、
ここは達人で無くては云へぬことである。
趣味の事であり且つ又実際問題である。・・・」
( p154 沼波瓊音著「徒然草講話」東京修文館・大正14年 )