ガイドの島内裕子さんの話は面白く。
まずは、食材をていねいに吟味して、
新鮮さを見極め料理するワクワク感。
せっかくなので、昨日につづいて『小林秀雄』。
この、フルコースは、舌鼓をうって味わなきゃ。
島内さんの素材を生かす料理を堪能することに。
その前に、急がば回れで、比較する意味で引用するのは杉本秀太郎。
杉本秀太郎著「徒然草」(岩波書店・古典を読むシリーズの一冊)。
この本のあとがきから、
「小林秀雄の『無常といふ事』は、創元社から昭和24年に
改装初版の出た直後に買い求めて以来、忘れ得ない書物となった。
私は18歳になったばかりだった。同書に収めてある『徒然草』を
論じた5頁にも満たない短文は、長いあいだ私を眩惑しつづけた。
『つれづれなるままに』という語の解釈にあたって、
私にはあの短文に最も多くを負うたという自覚がある。・・・」
(p189)
はい。普通はこんなふうにして素材の『小林秀雄』を取り上げる。
島内裕子さんは、徒然草という土俵で、みごとに『小林秀雄』と
いう素材の魅力を生かし調理する。ここはきちんと報告しなきゃ。
ところで、古本で買ったところの
島内裕子著「徒然草の内景」(1994年)と
「徒然草の遠景」(1998年)とはいずれも、
放送大学教材とあるのでした。
なあんだ、これは放送大学のテキストでした。
これで受講された方は多数おられただろうな。
古本のテキスト『徒然草の遠景』には、
毎ページにマーカーで線がひかれてて、
丁寧に受講されたのか書き込みが多い。
それはそうと『遠景』の目次の最後の方に、
「小林秀雄の徒然草観」とあり目にはいる。
はい。そこから引用しておくことに。
小林秀雄の『徒然草』は
「400字詰原稿用紙に換算して、5枚にも満たない短い
評論的エッセイであるが、その喚起するものは大きい。
彼がここで提示した徒然草の作品世界と人間兼好の輪郭は、
他の注釈書・研究書に拮抗するほど鮮烈である。」
こう島内さんは指摘し、『隠し味』を舌でみきわめております。
「注目すべきことは、このエッセイが小林秀雄の
文学的直感だけで書かれているのではなく、
それ以前の徒然草研究史を踏まえていると考えられる点である。
彼はそれまでの徒然草研究の成果を咀嚼した上で、
数々の断定的な発言をしているのである。
小林秀雄の『徒然草』でとりわけ印象的なのは、
徒然草第40段に強い光を当てたことである。
彼以前には、誰も彼ほどこの話に重要性を認めていない。
・・・・おそらく、
沼波瓊音の『徒然草講話』を念頭に置いての発言なのである。
・・・さらに小林秀雄は、内海弘蔵の『徒然草評釈』の
『徒然草趣味論』をも視野に収めて・・いる。このように
小林秀雄は内海弘蔵と沼波瓊音の徒然草研究を射程距離に
取り込みながら、それらに反論する形で自論を展開している。」
このあとで、島内裕子さんは小林秀雄の『徒然草』を味読します。
「小林秀雄が『徒然草』を発表してから現在まで、
50年以上の歳月が経過しているが、彼が提出した
徒然草観と兼好像は、今でも新鮮である。それは、
徒然草を生み出した兼好その人への関心に貫かれているからである。
小林秀雄の『徒然草』の主旨は、結局だた二点に集約される。
第一点は、徒然草は名文で書かれているということ。
第二点は、兼好の真意は表現の背後に隠されているということ。
徒然草の文章は、簡潔であることによって
読者にさまざまなことを考えさせ、感じさせる
象徴性や暗示力や喚起力を持つ。
読者は、書かれざる表現の余白を
読み取らなければならない。 」(~p241)
はい。このあとは、この新鮮な素材を生かしながら、
島内裕子さんが調理をすすめてゆく手際となります。
うん。こんな箇所は、しばらくすればスッカリ忘れて
島内裕子さんは、どこで小林秀雄を語っていたのかと
探し出すのも億劫になるのに決まっております。でも、
ここは、小林秀雄をきちんと整理整頓した箇所なので、
昨日と重複しますが、貴重だと思え、取り上げました。
追記:
島内裕子著「徒然草文化圏の生成と展開」(笠間書院)に、
「徒然草と恋愛」という10ページほどの文があるのですが、
それは小林秀雄著「Xへの手紙」の引用で始まり興味深い。