「安房震災誌」から、この箇所を引用。
「死者負傷者の多いのは、村落よりも市街地である。
中にも鏡ケ浦沿ひの北條・館山・那古・船形の市街地は最も悲惨であった。
今此の4町内に就て見るも、死者は604人の多きに上り、
負傷者は1784人といふ大なる数字を示してゐる。
家屋の倒潰数も、之を百分比例で見ると、
北條は96、館山は99、那古は98、船形は92といふ多大な倒潰数である。」
( p242 )
前回に、漁師町である船形の火災の状況を紹介しました。
これから、流言飛語の記録を紹介してゆきたいと思います。
これについては、『安房震災誌』のp220~221。
そして、『大正大震災の回顧と其の復興』上巻のp894~896。
2箇所に記載があり、前著には紹介程度。後著には具体例がありました。
ここには、長くなりますが、両方を引用しておくことに。
まずは前著から
「 9月3日の晩であった。北條の彼方此方で警鐘が乱打された。
聞けば船形から食料掠奪に来るといふ話である。
田内北條署長及び警官10数名は、之を鎮静すべく
那古方面へ向て出発したが、掠奪隊の来るべき様子もなかった。
思ふに是れは人心が不安に襲はれて、
神経過敏に陥った為めに、
何かの聞き誤りが基となったのであらう。・・・ 」
後著には、小見出しで『暴徒襲来の蜚報』とあります。
そこから引用。
「・・当時食糧不足、暴徒襲来、海嘯起るの流言蜚語至る處に喧伝され、
人々の不安は今から考へれば悲壮の極みであった。・・・
9月3日か4日の事かと記憶する・・・・
昼の暑さと劇務にぐっすり疲れた身体、
焚出しの握飯を立った儘頬張りながら夕食をすまし、
ホット一息つく折しも、
50歳前後と覚しき土地の者一人、
左手に自転車の先きにつける瓦斯燈を持ち、
右手に三尺あまりの棍棒様のものを提げ、
息せき切って事務所に駆け込んだ。曰く、
『 今、那古方面より、暴民大挙八幡、湊付近まで来襲しつつあり、
船形の漁民が食糧品奪取の目的なるらし、
其の襲来の合図があった。
即ち先刻乱打された警鐘がそれである。
私は町内各自の警戒を促し来れり 』と、
訴へ出たのである。
・・・・・・変事来の通告を受けたる住民は、
悉く燈火を消し戸締を厳重にし、婦女子子供老人を避難せしめた。
避難所と目ざされたるは事務所の裏手の旧郡役所跡であった。
各自は風呂敷包を背負ひ、子供の手を引き、毛布をかつぎ、
千態万様、ぞろぞろぞろと我等の事務所に来りて保護を哀願する、
暴動などあるべき筈なきを諭せども、蜚語におびえたる町民、
どうしても聞き入れない。詮方なく裏手に休憩せしめた。
見る間に身動きも取れぬ満員振を示した。
一同も不安の思をなし今に喊声でも挙るかと心配そのものであった。
・・・・
暫くにして刑事の一人来り報じて曰く、
『 先刻の警鐘は館山町下町の火災の跡に残りたる余燼、
風に煽られ燃え上りたる為なるも、すでに大事に至らず鎮火せり 』
と、館山方面よりの報告があった。
派遣されたる警官隊も程なく帰り来て、
『 暴民大挙襲来事実無根 』を報告す・・・
それにしても訴へ出でた男の軽挙を非難せざるを得ない。
然し流言蜚語盛にして人心恟々たる折柄、
自警的に或種の合図をなすべき、約束をつくって置いた事に
起因することであって、あながち咎むべきではなかろう。
只彼に今少し沈着と度胸が慾しかった。・・・ 」
はい。流言蜚語の渦中にあって、
『 今少し沈着と度胸が慾しかった 』とのこと。
現在でも、拳拳服膺して、肝に命じたくなる箇所ではあります。
ちなみに、この地域的ないし歴史的関係などは、
もう少し、記録を掘り下げたどってみたいので、
つぎにも、つづけてみたいと思います。
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