安政地震
2024-08-02 | 地震
「安房震災誌」の第二章は
「過去の地震と安房」と題して日本に記録されていた
古文書等をひもといている箇所がありました。
ついつい、その箇所は端折って、実際の安房の
関東大震災への記載の方ばかり見ていたのですが、
あらためて、『過去の地震』のページをひらいてみる。
はい。安政の地震についても触れられておりました。
そこを引用。
「安政2年10月2日、江戸大地震。いはゆる
江戸時代に於ける三大地震中の最後の大地震である。
時代の新しきだけに、地震の詳細を記したものに乏しくない。
が、此處にはその概要を挙げやう。
江戸府内で震害の最も劇烈を極めたのは、
何といっても地盤の柔弱な地域である。
即ち深川、本所、下谷、浅草の地であった。
今名主からの届出の数字を見ると
深川に868名、本所に385名、下谷に372名、浅草に566名
の変死者を出してゐる。
山の手の土地の堅硬な場所には、震害は比較的軽かった。
同じ下町でも、日本橋、京橋、新橋付近の如きは、
被害が割合に軽かった。
それから、地震の直後に府内30余箇所から火事が起こったが、
当夜は幸にも常よりは風が静かであったので割合に火勢弱く、
火消人足の少なかったに拘らず、
暁近き頃までに大方は消し終せたのであった。
全く鎮火したのは翌三日の午前十時頃であったと伝へる。
焼失総面積は約14町四方即ち一哩平方であった。
浅草五重塔の九輪曲り、谷中天王寺の九輪は落下したが、
塔はどちらも無事であった。
品川沖の二番台場の建物が潰れて出火があった守衛の会津藩士
16名即死した。中川沿岸の逆井では、地面裂け、平井灯明寺の
山門傾き、鳥居倒れ行徳の行徳寺は大破損であった。
江戸近郊で最も震度の烈しかったと伝へるのは、亀有である。
此處は田畑が一時に隆起して地面が小高くなると同時に
附近に反対に沼を生じたといふことである。
此の地震は、亀有から、亀戸、本所、深川の一帯が
震源地であったと伝へる。幸に津浪はなかったが、
それでも東京湾の海水が動揺して、
深川蛤町、木更津の海岸などには、津浪に類似したものがあった。
余震も可なりつづいたさうである。
小石川の水戸の屋敷などは、館舎築地など、悉く潰れて、
藤田東湖、戸田忠太夫等、此の時に震災の厄にかかった。
・・・・・・・・
此の地震に、我が安房地方は如何なる被害程度のものであったか、
特にそれを詳知することが出来ないのは遺憾である。
が、時代の新しいだけに、地方にはそれを記したものもないとも
限るまいと思ふ。しかし安房総体としてのものを知ることは、
今日まではまだ出来ずにゐる。・・・・ 」(p49~52)
はい。引用がつい長くなりました。
こうして残念ながら、残っていない安房の震災記録についても
ふれておられる。何だかその無念さは伝わります(笑)。
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